2004年秋に全国各紙に掲載

◎平穏は訪れたのか?

 悩み闘った果てに逝く

 集団自殺の女性を取材して 

 

 心の病に悩み、死の誘惑におびえながら、懸命に前を向く―。そんな強さが印象的だった。続発するインターネット集団自殺で逝った女性と数年前、取材で知り合った。彼女はなかなか表面化しない子どもへの性的虐待の?生き残り?として、闘っている最中だった。

 出会いは、やはりインターネット。知人の紹介で彼女のホームページに行き着き、自己紹介のメールを送ったのは夏の初めだった。それから数カ月で、顔を合わせたのは二回だけ。本名すら知らないまま、送ったメールは五十通を超えた。

 どれも熱っぽい長文になった。愛憎が絡む肉親を刑事告訴してまで、自分の人生を取り戻そうとする彼女の姿に、人ごとではない「光」を見ていたからだ。

 生々しい虐待の様子に続き、幻聴や記憶の断絶などの心的外傷後ストレス障害(PTSD)の苦しみをつづった?ネット日記?には、「死にたい」の文字があふれていた。そこに、小学生のころ実父に虐待され、成人後も後遺症に悩む自分の妻の姿が重なった。

 うつ病の妻はその年に二回、前年にも一回、処方薬を百錠単位であおり、救急車で運ばれた。意識がないまま、集中治療室(ICU)で土気色になった寝顔を眺め、職場に連絡後、帰りのタクシーの中で私は歯を食いしばった。怒りと悲しみ、無力感。悔しくて、情けなくて、自宅に戻ると、声を上げて泣いた。彼女と出会ったのはそんな時期だった。

 ネット日記によると、複雑で判例の少ない訴訟を前に、弁護士は及び腰のようだった。告訴状の準備に入ってからも、おぞましい記憶が突然よみがえり、家族関係が険悪になり、心身の症状が悪化。「殺」「死」「悲」「怖」など言葉の?毒?をネットに吐き散らすことで、何とか自分を保っているようにも見えた。

 最後に会った日のことを思い出すと、今でも苦い後悔で息苦しくなる。

 うす曇りの秋の午後、喫茶店で待ち合わせた。「同じように苦しむ人に光を分けてあげて」と手前勝手に頼み込む当方のメールに対し、「人がどう思うか分からないけど、何が起こっているのかは知ってほしい」と匿名での記事化を了承する返信が直前に届いていた。個人的な思いも含め、あらためて取材の趣旨を説明するつもりだった。

 約束通り現れた彼女を見て、緊張が緩んだわけではない。ただ告訴状が警察に受理され、事情聴取も始まっていた。起訴に合わせ、世に問うための取材の先行きも明るい。今から思えば、はしゃいでいた。後半は酒も入り、いい気分で帰途についた覚えはあった。

 数日後。日記を見て凍り付いた。「ベラベラと無神経なおしゃべり」「悔しい」…。私が夢にまで出たらしい。間もなく「やはり取材の件はお断りします」と冷ややかなメール。日記の記載には誇張した部分もあったが、非はこちらにあった。

 後になって、虐待とアルコールが彼女にとって、混然一体の悪夢なのを知った。考えられない失態だった。何度か謝罪のメールを出したが、当然のように返信はなし。手元の電話番号を見つめながら、いたずらに時間を費やした。やがてホームページは削除され、携帯電話も使用不能に。つながりは絶たれた。

 告訴の行方は気になったが、新聞に起訴や公判の記事は見つからなかった。それから数年後。見知らぬ他人たちと逝く直前の彼女と接触し、説得を試みた知人は「最後は突き抜けたように明るかった。何を考えてるか分からなかったよ」と寂しく笑う。

 闘いは終わったのか。それとも投げ出したのか。平穏は訪れたのか。長期入院から自宅に戻った妻を迎え、考えたが分からなかった。(山下憲一・共同通信文化部記者)