美由紀さんの場合

私は絶対に許さない、あの人を。私から父の命を奪ったあの人を許せない。

事件は1999年10月25日に起きました。
23時頃、弟から電話がかかってきました「お母さんとお父さんが自殺した。お姉ちゃん来て!」と私は気分が悪くなり座りこんでしまいました夫が電話を代わって急いで実家に行く用意をし義父母に夫が何が起こったかを告げ実家に急ぎました。

実家のマンションの前に着くと警察の車でいっぱいで私は震えが止まらず動けませんでした。
夫に支えられながら部屋に急ぐと部屋の中も警官でいっぱいで立ちすくんでいると中から年配の刑事が出てきて何が起こったかを説明してくれましたが私には理解が出来ず理解が出来たのは父が亡くなった事だけでした。

父と母は別々の病院にいると言われ私は父の元に急ぎました。待っていたのは父の殺されたままの姿でした。
私は父に触れることが出来ず立ちつくし泣くだけでした。今でも父に触れることが出来なかった事を後悔しています。父のあの姿が頭に焼き付いて離れません。

次に母の元に行きました私は憎しみの気持ちで心がイッパイになり母を見て「死んでくれればよいのに」と思い母を生かしている装置を殺人罪承知の上で止めたかったのです。

私は父が歳をとって出来た子なので父は私が産まれた時に大変に喜んだそうです。
仕事から帰ってくると汗まみれになりながら私を大切に洗っていて祖母と父は私の取り合いをしていたんだと聞きました。
私は左肘に障害を持って産まれたため祖母と父は幼い私を連れて、あらゆる病院を回ったそうです。

3年後に弟が産まれました。私は父に連れて行かれ産まれたばかりの弟と対面しました。その時から母は弟ばかりを可愛がり私は見えてないような存在になりました。
秋祭りの日、幼い私は父に抱っこしてもらい嬉しくってはしゃいでいると隣の家のお兄さんが父に私を抱っこさせて欲しいと言われて父が私をお兄さんに渡そうとすると私は父の首にしがみついたことを覚えています。
私は父から離されてしまうと、もう帰ってこれないと思ったのです。幼い頃の私は愛想のない子でした。

父は「思い出はお金では買えないもの」だと私に教えてくれて夏休み冬休み春休み時間がある限り家族を旅行に連れて行ってくれ沢山の写真を撮ってくれ思い出を残してくれました。父の写真の中には笑顔の私ばかりです。
旅行で海に行った時、幼い私は声をあげ笑いながら父の後を追いかけて父は笑い私を何度も抱き上げ抱きしめてくれました。「お前はパパの宝物だよ」と。

父は私の肘の障害については一言も罵ることなど言わずに私の肘が治るように医学博士の知り合いに問い合わせ、その時に日本で5本の指に入る有名な整形外科医を紹介してもらい手術をしてもらえるようになりました。
そして小学3年の時に始めての手術を受けました。私は何をされるのか分からずに、ただただ怖くてたまりませんでした。
あの人の話だと手術が終わって部屋に戻った時に私は父を呼び続けていたそうです。

父は入院中の私に沢山の本を買って持ってきてくれました。
祖父母は当時、流行ったモンチッチのオモチャと着せ替えの服でした。
あの人は私には付き添ってくれずに家に帰ってしまい私は寂しく土日になると病院のロビーのイスに座り、あの人を待ち続けました。
そして疑問を感じました「部屋のみんなには、お母さんが付き添ってくれてくれてるのに私には、どうして付き添ってくれないの?」と。

退院してからも、あの人は私を無視してこれみよがしに弟と楽しそうに談話をしていました。弟がいなくなると私を柱にくくりつつけ私を殴り始めました。
私は泣いて「御免なさい。許して下さい。お母さん止めて!」と叫んでも暴力は止まりませんでした。
棒で殴ったり手で打ったりされて時には鼻血を出したりしました体はアザだらけで触れるだけで痛みが走りました。あの人は「誰かに、この事を話したらもっと酷いことをするわよ」私を冷たい目で見下ろしました。

暴力をふるわれるのは父が出張の日でした。父は出張の多い人なので、あの人も分かっていてやっていたのです。父が家にいる時は必ず私とお風呂に入るので。
祖父母が泊まりに来る日も、それは行われませんでした。やはり祖母とお風呂に入ることを知っていたので。

私は父が家にいる時と祖父母が家に泊まりに来る時だけ安心して学校から早く帰ることが出来て安心して眠ることが出来ました。
でも父の仕事が忙しくなったり祖父母が帰ってしまうと、また虐待が始まりました。あの人は冷たく微笑んで「逃げ場所なんか無いわよ」と言っているように私を見下ろすのです。学校でも虐めが始まりました左肘が曲がっているために「腕曲がり!身体障害者!」と騒ぎ立て周りの子達は楽しんでいました。

私は泣くのを我慢して唇をかみしめていました。あの人に言えば喜ぶことは分かっていたし父に話せば悲しむことは分かっていたので誰にも言えずに、どう対応すればよいか分からないままでした。
小学4年になって2度目の手術をしました。その時も同じで、あの人は付き添ってくれませんでした。
病院を退院してすぐにリハビリ専門の○○病院に入院していました。

同じ歳の子は居ず祖父母と同じ歳の人ばかりでした。そのお陰で孫のように可愛がられて寂しい思いはしませんでしたが両親が恋しくなることが度々ありました。
半年近く入院していました。退院したら父は大変喜んでくれました。
でも私は父と過ごせることは嬉しかったのですが、あの人の虐待が始まることを分かっていたので素直に喜べませんでした。

風邪をひいた時、私は薬が大きすぎて飲み込むことが出来ずに何度も吐き出してしまいました苛立ったあの人は私の頭をガラスのコップで頭を殴りました。
流れ落ちる血を見て悲鳴に近い泣き声を出した私の声に驚いて寝室から飛び出してきた父は私を抱えて車に乗せ夜勤でやっている病院を探し回りましたが一件もやっておらずに仕方なく家に戻り父は応急手当をし「明日の朝、一番で連れて行くから今夜はパパと寝よう」と言いました。
あの人は泣きながら「私だって手を怪我しているのよ。なんとかしてよ!」と父に訴えましたが父は「この子にしたことを、この子に謝らなければ手当はしない!」と言うと、あの人は私を睨みつけ「御免なさい」と言い父の手当を受けました。

そして小学5年の春、父が脳卒中で倒れる日まで毎日のようにあの人の虐待は続きました。父が会社で倒れて病院に連れて行かれて父の様子を見ると子供ながらにも父の生命の危険を感じ私は泣き出してベッドで寝ている父に抱きつきました。
あの人と祖母は私を父から引き離そうとしましたが私は泣きながら「パパ!パパ!」と叫んでいました。

私と弟の面倒をみられない、あの人は叔母に私達を預けました。
叔母には二人娘がいて私と弟より、ずっと年下でした。
叔母達は団地に住んでいて、とても狭い部屋で祖母が買ったと思われるピアノが置いてありました。
叔母は料理が苦手で、いつもスーパーで惣菜を買ってきていました叔母の夫は私達を呼び捨てで呼び自分達の子供には、「ちゃん」付けで呼んでいました。
私と弟は夜になると手を繋ぎ部屋の窓から「パパ達に会いたいね」と泣いていました。

叔母は、しょっちゅう私達を置き去りにして違う部屋の人達の所へ娘二人を連れて遊びに行っていました。
留守番中に、たまたま様子を見に来た祖父が置き去りにされている私達を見て驚き「おじいちゃんの家に泊まりに行こうな」と言い家に連れ帰ってくれたのです。
父の退院が決まって私と弟も家に戻ると父は会社を首にされていました。
あの人は父が働かないことに文句を言いましたが私は大好きな父が家にいてくれる事を喜びました。そして、もう虐待されなくて済むことにも喜び安心しました。
あの人は父が家にいることが気に入らなくてパチンコに入り浸りになりになりました。

でも父は何も言わずに黙っていました。
私は父が家にいることが嬉しくて早く学校から帰るようになり父の隣に座り一緒に小説を読むようになりました分からない漢字を父に「これってなんて読むの?」と聞くと父は「まず辞書で調べてごらん。それでも分からなかったらパパが教えるから」と言われ私は必死になって辞書を調べたり父に聞いたりして難しい漢字を覚えていきました。

ある日、父が言いました「沢山の本を読んで沢山の音楽を聴いて沢山の映画を観なさい。そして困っている人がいたら助けてあげるんだよ。心の優しい子になりなさい」と。
学校の宿題で自分の名前の意味を調べてきなさいというものが出て父に名前の意味を聞くと「美しく由緒正しく人生を旅(紀行)するという意味だよ」と教えてもらった時は私はとっても誇らしい気持ちになり嬉しくてたまりませんでした。

父は決して、あの人のように声をあらげたり理由も殴ったりする人ではありませんでした。父に殴られた覚えもありません軽く頭をたたかられることはありましたが何故、叱られるのか理由を話してくれました。
あの人が家に帰ってこなくなるようになって私と父は二人で料理の本を見ながら肉じゃがやカレーなど簡単な物から作り始めました。
そして父は私に古い映画を観せてくれました「オードリー・ヘップバーン」の「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」「ヒッチコック」の「裏窓」などです。

あの人は、たまに帰ってきても私の顔は見ませんでした。そしてあの人は自分がどれだけ不幸であるか、どれだけ家のことを我慢しているかを延々と映画の中のヒロイン気取りで父に話して聞かせましたが父は黙って聞いていました。
中学生になった時も入学式に、あの人は来てくれませんでした。制服のリボンの結び方が分からず友人の家に友人を迎えに行くと友人のお母さんが事情を知っていたので優しく「分からなかったのね?」と結んでくれました。

中学生になっても虐めは止まりませんでした。でも私は心の中で「あの人の虐待よりはマシ。帰ればパパが家にいる」と思い我慢しました。
中学2年になると、あの人は家族を置いて家を出て祖母の家に泊まり喫茶店を始めました祖母や父は「母親を恋しがる時期の子供を置いて遠くで仕事をしなくてもいいじゃないか」と言って聞かせましたが、あの人はがんとして聞きませんでした。
弟は恋しがりましたが私は恋しがることはありませんでした「大好きなパパが居てくれれば何も欲しくない」と思いました。

祖母の話では喫茶店は繁盛していたそうです。でも祖母は母不在の私と弟を可哀相に思い何度か旅行に連れて行ってくれました。
旅行先で親子が楽しそうにしているのを弟が羨ましそうに見ているのを祖母が知ると私と弟を不憫に思い祖母と父とで、あの人に喫茶店を辞めるように言い聞かせ無理矢理辞めさせました。
それを、あの人は良く思わず不満ばかり言い私に向かって「あんたさえ産まれてこなければ、お父さんと離婚できたのよ!流産しかけた時に死んでくれてれば良かったのよ!あんたは、どうせ自分の腕のことで「私は世界一不幸だ」って思ってるのよ!あんたは、いつも自分勝手で我が儘で、どうしようもない子だわ!」と言われ私は以前から、あの人と話すことなど無かったけれど目を合わすことも出来なくなりました。

冬休みになると祖母が父の了解を得て私と弟を旅行に連れて行ってくれました。
沈んでる私に祖母は言いました「あの子が、お前にどんな酷い態度や酷いことを言っているのか分からないけれど、お前のお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんにとっては、お前は大切な子なんだよ。お前が産まれた日は3人にとって素晴らしい日だったんだよ。これだけは、覚えておいておくれ」と。

その2ヶ月後に祖父が亡くなりました。祖母が寂しそうに「あの旅行が、おじいちゃんにとって最期の思い出だったね。お前も誠もおばあちゃんもあの日を、おじいちゃんのために忘れないようにしようね。」と言いました私は祖父を思い泣きました。
祖父とは血の繋がりは、ありませんでした。あの人にとって2番目の父になるんだそうです。でも祖父は血の繋がり関係なく私をとても可愛がってくれました。祖母も同じように叔母の娘達よりも可愛がってくれました。

毎日のように電話をかけてきてくれ私の様子を父に聞いていました。
父から「熱を出して学校を、もう3週間も休んでいる」「扁桃腺を腫らして熱を出して休んでいる」「御飯が食べられず吐いてばかりいる」「肺炎になって寝込んでいる」と聞くと必ず泊まりがけ出来てくれて私の看病をしてくれました。

中学3年になると父と母は夜中に大声で毎晩、離婚する離婚しないと大喧嘩をしていました。私は、その声を聞きたくなくって布団の中に潜り込み耳をふさぎました。
私は、あの人と顔を合わせるのが嫌で朝ご飯の食べずに学校に向かいました。
下校時間になればあの人が家に居ないことを知っていたので父の元へ急いで帰りました。そして夏休みに3回目の手術を受けました。

高校生になると、あの人はエステのお店を始めました。ちょうどお店のオープンと私の盲腸の手術日と重なってしまって、またあの人は父もいる前で大声で文句を言い始めました「いったい、どうしてくれるのよ!明日は大切な日なのよ!よりにもよってあんたって子は本当に嫌な子ね!どうしてくれるのよ台無しだわ!」と怒鳴りました。

父は落ち着いた声で「この子だって、なりたくってなったわけじゃないことは分かってるじゃないか。腕の手術と盲腸が重なって薬で盲腸の手術を3回も、ちらしてしまっただろ?だから、もう手術するしかないと医師にも言われたじゃないか。僕がこの子に付き添うから君は仕事に専念すれば良いよ」と言いました。
そして次の日、私は父に付き添われ入院しすぐ手術になりました。目が覚めると父が優しく髪を撫でてくれました安心した私は、また眠りにつきました。

退院して、また普通の暮らしに戻るとあの人は真夜中まで遊び歩いて帰ってこず顔も会わせることもなく自分で弁当を作ってスクールバスで学校に毎日通いました。
休みの日はパチンコで帰ってきてくれず、とうとう父も怒り私にあの人を呼んで帰ってくるように言われ私は嫌々、あの人のいるパチンコの店に入る時に大学生に「パチンコ楽しい?」とからかわれて、とても腹が立ちました。
店の中であの人を見つけ父がどれだけ怒っているかを告げ私は「普通のお母さんになって!みんなのお母さんと同じようになって!」と言うと冷たい目であの人は私を睨み「普通のお母さんって何?みんなと同じお母さんってなんなの?私は、あんたのお母さんになりたくってなったんじゃないわ」と言われ私は泣くつもりはなかったのに涙が勝手に溢れてきて止まりませんでした。
泣きながら帰ると父は私の顔を見て強く抱きしめてくれました。

高校2年の春に4回目の手術になりました。やはり、あのひとは付き添ってくれず父が手術の日は付き添ってくれました。1ヶ月で退院し学校生活に戻ると、またいつもと同じ父と二人っきりの生活になりました。
高校2年のクラスでは虐めもなく楽しいものでした。あの人に言われた酷いことを忘れさせ私が声を出して笑える場所でした。

学校から帰ると父が待っていて一緒に自転車で夕食の買い物に行き夕食を作って二人で食べて父の前で宿題を済ませ一緒に話しをしたりTVを観たりしてすごしました。
高校3年のクラスでは、また虐めが始まりました。口だけではなく手も出るような虐めでした。でも父には黙っていました余計な心配はかけたくなかったので。
秋になると授業中に電話があり父が倒れて病院に運ばれたと、あの人から電話があり急いで帰りました。

あの人は私に「お金を渡すからパジャマと着替えを用意しなさい。あんたが、お父さんの看病をするのよ。学校には私が電話しておくから。病院まで送っていくから急いで!」と言われ言われるままに用意をし病院に連れて行かれました。
部屋に入って父を見ると不安な気持ちになりました「パパが死んでしまったら、どうしよう?私はパパに何をすればいいの?」と。

幸い父は意識が戻って私が看病していることに驚き「学校は、どうしたんだい?」と聞かれ私は「あの人が仕事で忙しいから娘の、お前が看病しなさいって言われたの。でも私ちっとも嫌じゃないよ!だってパパの側にずっといられるんだもの。」と言いました。
父は私が母のことを「あの人」と呼んでも叱りもしないし驚きもしませんでした。
父は「単位はどうするんだい?卒業が遅れるじゃないか・・・。パパのせいで卒業が遅れるなんてパパは悲しいよ」と言うので私は「卒業が遅れたって、ちっとも気にならないわ。それよりも私にはパパが大切だものパパが生きていてくれるなら私は何だってするんだからパパは気にしないで!」と言うと父は私の手を強く握りました。

私は点滴の交換を看護婦に知らせ食事を食べる手伝いをし下の世話をし、それを終えると急いで近くの弁当屋で弁当を買って食べ銭湯に行って急いで父の部屋に帰りました。
そんな日々が1ヶ月、続きました。あの人は、たまに病院に来ると派手な化粧に派手な服で別部屋の男の人達と大声で話しイヤラシい笑い方をしていたので私は、それを見て腹が立ち拳を握りしめました「なんて人だろう!」と

そして父が退院して学校に戻り、やはり単位が足りずに卒業が遅れました。
父は卒業した日にステレオを買ってプレゼントしてくれました私が欲しがっていたことを覚えていてくれたのです。

卒業後、私は就職先を自分で探し面接を受け、すぐに採用されました普通の事務職でした。
家から自転車で20分くらいの場所で給料は手渡しでした。始めてもらった時の嬉しさを今も忘れません。
給料の中から父に3万円渡しました父は「なんだい?」と聞くので「生活費だよ。だって普通は渡すんでしょ?」と言うと父は「お前はママから、お小遣いももらわず、お弁当も作ってもらえなかったんだよ。なのに何故パパに生活費なんて必要なんだい?自分のために貯金すればよいじゃないか。貯金しなさい」と言われ私は貯金しました。

ある日、会社でひびの入ったガラスの灰皿で手を深く切ってしまって会社で応急処置をしてもらっても血が止まらないので先輩に家まで送ってもらった日、父は血まみれの私の手を見て驚き急いで病院に連れていき看護婦に「外に出ていてください」と言われても聞かずに私の肩を抱きしめ処置される私を不安げに見ていました。
家に帰ると「女の子なのに傷跡が残ったら可哀相だ」と泣きだしたので私は驚き「パパこんなの、すぐに治るよ!だから泣かないで!」と父に抱きつきました。

勤めだして10ヶ月経った日に肘に痛みが走るようになり違和感を感じたので市民病院で診てもらったら「手術が必要です」と言われ帰って父に、その事を告げると父は入院に必要な物を用意してくれました。

その頃の、あの人は父と私の奪い合いをしていたのです。
離婚して連れて行って店で働かせるつもりでいたので今まで一度も母親らしいことなどしてくれたことも優しさもみせてくれたことがなかったのに私に「お前が必要だよ」とアピールしてきましたが私は無視しました。例え父と、あの人が離婚することになったとしても私は父についていくと決めていたからです

失敗したら動かなくなると医師に聞かされているので私は、とても不安でした。それを察した父は私の手を握って「心配ないよパパがついているからな」と言ってくれました。
手術室へ入るまで父はついてきてくれ中に入る直前、私に手を振ってくれました。
痛みでうなされて目が覚めると父は急いでナースコールを押して私が痛がってることを告げました痛み止めを打ってもらうと父は不安げに「大丈夫か?もう痛くないか?」と聞くので「うん。もう痛くないよ!パパ、今は何時なの?外が暗いけれど」と聞くと「5時間もかかったんだよ。もうパパは心配でしかたなかったよ。でも、お前の顔を見て安心したよ」と言われたので「パパもう帰って。疲れたでしょ?パパが倒れちゃったら大変だもの明日、会えるのを楽しみに待っているから」と言うと「本当に大丈夫なのか?強がりじゃないのか?」と言うので「強がりじゃないよ本当に大丈夫だから帰る時に抱きしめてくれれば安心して眠れるからパパ抱きしめて!」と言うと「赤ちゃんみたいだな」と笑い父は私を抱きしめてくれました。

でも本当は不安と痛みでイッパイでした泣くところを父に見られたくなかったし子供らしくするということを、あの人に奪われてしまったので・・・どうすればよいか分からなかったのです。
何時間か経つと、あの人が病室に入って来ました猫なで声で「どうなの?だいじょうぶなの?」と私に聞いていると主治医が病室に入ってきたので、あの人は慌てて「この子、大丈夫なんですか?どんな手術をしたんですか?」と今まで聞いたことも無いくせに良い母を演じ「別室で」と言う主治医についてあの人は病室を出ていきました。

何分か経って主治医とあの人が病室に戻ってきて主治医は私に「指を動かしてみて」と言われて私は指を動かそうとするのだけれど全然、動かないので不安になり頭に「動け!うごけ!」と命令しても動かないので諦めてしまうと主治医は黙ったまま病室を出て言ってしまい、あの人と二人取り残された私は見せたくなかった人の前で悔し涙が出て止まらなかった「ああ、もう動かないかも知れないんだ」という恐怖に襲われながら、あの人の顔から自分の顔を背けて。

やはり、あの人は付き添ってはくれなかった。次の日が仕事が休みなのに帰って行った主治医から何を聞かされたのか知らないけれど母親らしいことは、してくれなかった。
次の日、私は強い痛みで我慢できずに布団に潜り泣き続けていましたナースコールに手が届かずに痛み止めを打ってもらえない状態でいたので何時間も痛みに耐える時間が続きました。
そうすると父が病室に入ってきて痛みをこらえて泣いている私を見ると抱きしめ「やっぱり我慢してたんだな。今すぐ痛み止め打ってもらうからな」と言いナースステーションまで看護婦を呼びに行き痛み止めを打ってもらいました。

父は「何故、パパには本当のお前を見せてくれないんだいパパは悲しいよ。パパには心を許して良いんだよ。パパにとっては、お前はいつまでも子供なんだから甘えても良いんだよ。パパはお前が甘えてくれる方が嬉しいよ。お前は、ほとんど病院で過ごしてきてパパも仕事で忙しくて病院になかなか会いに行けなくってママが付き添ってくれてるものだと思っていたら付き添っていなくって、お前がどれだけ寂しい思いをしてきたかパパは知っていたけれどママに何も言わなかった。それが駄目だったんだな・・・両親の愛情を求める時期に、お前は手術で痛い思いをして寂しい思いしてきたんだなパパの責任だ。」と言われた私は「あの人には一度だって愛情を求めたことなんか無いよ!パパは怒るかも知れないけれど私にはパパさえいればパパだけいてくれればいいもの。離婚するなら私は絶対にパパについていくの!パパが駄目だって言ってもついていくの。」と泣きながら言いました。父に涙を一度も見せたことがなかったのに・・・。

個室から大部屋に移った途端あの人は良い母を演じ始めました毎晩、病室に来て同室の患者さんにドーナツや果物などを「娘がお世話になっています」と言いながら。
新しいパジャマや大きなヌイグルミなどを「ほら、着てみてご覧なさい」「このヌイグルミ欲しがってたでしょう」と言いながら良い母を演じて満足していました。

退院すると紙を渡されました「今まで病院で使ったお金よ!返してちょうだい」と私は父に言われ貯金していたお金から返しました「これで文句ないでしょ!」と言うような目で、あの人の手の平に叩きつけました。

1ヶ月、会社を休んだので首になりました。仕方ないと思い父と今後のことを相談したら父は「リハビリに行きなさい。医師からリハビリは大切だと言われただろ?頑張ったら麻痺もなるかも知れないから諦めずに頑張ってごらん」と言われたので毎日、リハビリに通いました。でも麻痺は治りませんでした。

再び始まった両親の大喧嘩に嫌気がさした私は友人とディスコ通いをしました。いろんな男の子が声をかけてくるのが楽しくって男の子をからかっていました。
中には真剣に付き合って欲しいという年上の男性も何人かいましたが付き合っても心は満たされず別の男性と付き合うことが続きましたが自分が汚れたみたいだし本当の愛なんて存在しないと思い遊ぶことも止めました。

翌年、父があの人のためにあの人のエステの店がある街にマンションを買い引っ越しました。引っ越したマンションに馴染めない私は息苦しさを覚えました。
引っ越した先で私は就職先を探そうとしていたら、あの人が「あんたは私の子供なんだから子供なら親の手伝いをするのが当然なんだから店を手伝うのよ!2万円も渡せば充分でしょ!」と言われました。

私は、もうどうすることも出来ないし逃げ場も無いからと諦めあの人の店を毎月2万円のお給料で働き5時にはマンションに帰って夕食を作るという日が始まりました。
来年は成人式だと知り着物の店から何通か毎日のように振り袖の宣伝の葉書が届きましたが私は買っては、もらえないだろうと思い全部ゴミ箱に捨てていました。それを見た父が「捨てなくても良いから見せてごらん」と言うので私は黙って父に渡しました。

父は「お前は富士額で美人だから着物がよく似合うだろう。ママが帰ってきたら話すから待っておいで」と言いました。
父は、あの人に私に振り袖を買うように説得していました・・・あの人は「無駄遣いよ」 と言うと父は怒って「何が無駄遣いなんだい?自分の娘の晴れ姿だぞ!お前は、あの子の母親なんだから一度くらいは母親らしいことをしてやったらどうなんだ」と怒鳴りました。
父は、あの人にでさえ声を荒げて怒ることも殴ることも無かったのに始めて私のために怒ってくれたんです私は驚きました。

次の週の休みの日に父とあの人と私の3人で祖母がお気に入りだった着物の染めの専門の店に行きカタログを父とお店の人が真剣に見ながら3時間かけて決め父は色具合の指定をしお店の人に帯と帯揚げなどの小物と鞄と草履も選んでもらいました。
そして私はお店の人に手の長さなど、いろんな場所の長さを測ってもらいました。

振り袖が出来上がったと連絡が来ると父と二人で、お店に行き羽織って見せました父は嬉しそうに目を細めました。お店の人に「美人で色の白い、お嬢さんですから何を着られてもお似合いですよ」と言われると父は自慢げに「有り難うございます。」と言いました。そして美容院を予約して髪を結ってもらい着付けてもらって写真店で前撮りをしてもらい出来上がりを待ち出来上がってくると父は嬉しそうに何度も何度も見ていました。そして父は私に「ほらパパが言ったとおりだろ?お前は美人だから着物が似合うんだよ。そのうち周りの男が放っておかなくなるな・・・。そうなったらパパは寂しいな」と言うので私は笑って「美人だと思ってるのはパパだけだよ。誰も私の事なんて相手にしないわよ」と言いました。それでも父は寂しそうでした。

あの人は面白くなくって、お店で虐待を始めました・・・。
言葉の虐待も始まりました。お客さんの前で「この子さえ産まれてこなければ離婚できた
のに」と何度も何度も笑いながら言いました。傷ついた私は、お客さんの前では泣くことも出来ずに笑うしかありませんでした。
お客さんは「そんなことを言ったら罰が当たるわよ。今時の子で親の手伝いをしてくれる子なんていないんだから」と言ってくれましたが、あの人には通じませんでした。

自分が、だんだん子供として人間として必要とされてないと思い私は持っている2万円のお金で薬局に行き睡眠薬を買いまくり、それを全部飲みました。
気がついたら病院にいて父が悲しい目をして私の横に座っていました。あの人は大声で「あんたのした事のせいでマンションにいられなくなったら、どうしてくれるのよ!」と怒鳴りました。
私は日も経たない間に、また睡眠薬を飲みました。その時は処置の最中で医師が「どうしてこの子の母親は1度も来ないんだ!」と怒っていました。
「退院だから家に電話して迎えに来てもらおうか?」と看護婦が聞いてくれましたが私は首を横に振り一人でマンションに帰りました。

一人で帰ってきた私を見て驚いた父は「何故、電話してもらわなかったんだい?」と言い後は何も言わずに強く抱きしめて私の頭を撫でてくれました私は涙があふれ出て止まらずに私も父に抱きつき「パパ、御免なさい」と父に謝っていました。

結婚してから夫の暴力に悩みました。
子供が出来ないことも婦人科で辛い検査を受けましたが私には問題は無く夫にあったのです子供が大好きな私は子供はもう抱けないんだと泣きました。
孫の顔を見たいと楽しみにしている父になんて言えば良いのだろうと思っていたら父がベランダで倒れて弟が発見して病院に運ばれたと連絡があり病院に急ぎました。

父は危険な状態でしたがなんとか持ち越し右半身麻痺と言語障害になってしまいました。私は、あの人が父の世話をしなことを分かっていたので主人に頼み毎週、父の元に通い体を拭いて車椅子
で屋上まで散歩をし、その時に泣きながら子供が出来ないことを告げました。
あの人は父が話していることを「何を言っているのか分からない」と聞こうともしませんでした。リハビリ専門の病院に入院しても私は毎週、通いました父の喜ぶ顔が見たかったからです。

あの人は同じく何もしませんでした。そして退院して、あの事件が起こったのです。私は父を助けられなかった事を、ずっと後悔しています。9年前から鬱病と闘っています。
あの人は始めの裁判では実刑でしたが、勝手に裁判を頼み執行猶予6年という軽い刑になり私が面倒をみることを裁判官に命じられました。

執行猶予が解けると、あの人は私と親子の縁を切り知らない男性と姿を消えました弟も同じです。もう私には血の繋がった家族は、いません。

美由紀