猫屋敷さんの場合

「虐待に依る心の病」

私は5年前から(症状はもっと前から出ていましたが)鬱病・パニック障害・PTSDの治療を受けています。
発症の原因は両親の虐待です。
私の母は5年前「癌」でこの世を去りましたが、複雑な気持ちでその死を受け止めました。
母は父を愛するあまり壊れていました。
父は女性関係が激しく、母と結婚する時既に結婚していて、いわゆる重婚でした。
母が私を宿し、相手の女性は子供に恵まれなかったため、その女性が身を引く形で結婚したそうです。
それでも父の女性関係は相手を変えては続き、「子供が出来たから父がかえってくる」と思っていた母にとって私という存在は目障りだった様です。
死後、母の日記が出てきましたが、はっきりそう書かれています。
私が6歳か7歳の時、父の愛人が慰謝料を請求しに家を訪ねてきました。
今でもはっきり覚えています。母の神経も限界に達したのでしょう・・・。
私を殺そうとしました。泣きながら私の首を絞め、「子供が出来たらお父さんが帰って来ると思ったのに!
あんたなんか生まなければよかった、そしたら私は幸せになれたのに!」そう叫んでいました。
まだ存命だった祖母がいなければ私はそのまま死んでいたかも知れません。
今思えば、母が不安定だったため毎日私の面倒をみに通ってきてくれていたのでしょう。
私の存在は生みの母に否定されました。
父が帰らない時は八つ当たりされたりもしました。
煮えたぎった鍋を投げられたり、髪の毛を切られたり・・・。
でも私は母親に愛されたくていつもいい子でいました。
私の父は医者です。家にお金を入れなくても「医者の妻が働きにでたらみっともない」と母は働きには出ず、実家に頼っていたようでした。
そして私が25歳の時母は離婚しました。家に全く帰らなくなった父を待つのが辛かったのだと思っています。またはみじめに思ったのかも。
私も離婚を経験しました。相手はとてもいい人だったのですが、幸せが息苦しくて逃げ出してしまったのです。
子供を引き取るため(実家は岩手で、東京在住です)私は吉原(ソープ)で働き、お金をためてマンションを借り、子供を引き取りました。
吉原で働いている事が母にばれました。でも「辞めろ」とは言わず、逆にお金の無心をしてくるのでした。
いい子でいたい私は母に援助し続けました。
あの言葉を撤回して欲しくて・・・。
父は知らん顔で全く連絡をとっていませんでした。
母が癌で手遅れとなり、もうじき死を迎えようとしている時「多田(私の本名です)先生に診て貰いたいな」というので連絡をとりましたが、既に新しい家庭を築き子供が生まれたばかりの父にとって面倒?だったのか見舞いはおろか、葬式にも顔をみせませんでした。
結局あの言葉は撤回される事もなく、父も知らん顔で私の心はゆがんでいくのでした。
そして発病・・・。
2年間の引きこもり。
外へ出る事もままならず、母の残した言葉とひどい仕打ちだけが頭の中でクルクルしていたのでした。
症状が悪化する度に薬は増え続け、気付いた時には「薬物依存」に陥っていました。
「このままではいけない!薬が増えるばかりだ!」と不安に思い始めた時、友人の紹介で知り合ったセラピストの先生から、現在通院中の先生を紹介されました。
カウンセリングも受けてみました・・・でもフラッシュバックするばかりで一時中断。
それでも徐々に薬は減っていき、少しずつ症状が改善されてきました。
そんな時私に「癌」発覚、母と同じ病です。
手術で切るか、放射線で叩くか、選択を迫られた時、父にも相談しましたが、返ってきたのはただ医者としての言葉だけです。
「それは結構ひどい状態だぞ、ま、頑張れよ」これだけです。
やはり父は知らん顔でした。見舞いはおろか電話一本もきませんでした。

でも私ももう39歳、親が必要な歳でもないかと思い始めました。
ここに投稿しようと決めたのは「治したい」からです。
またカウンセリングも受ける気になりました。

先日は母の誕生日だった日ですが、思いがけず見つけた形見の品は私が旅行した時にお土産に買って帰った「ワサビ染めのバッグ」でした。
私はすっかり忘れていたのですが、それは何度も洗濯されすっかり色あせてしまっていました。
最後に入院した時も離さずに使っていたから、との事でした。

このバッグを見つけた時、女としての母の気持ちや私に対する思いが偲ばれた様な気がしました。
私はもうきっとフラッシュバックは起こさないでしょう。