リンドウさんの場合

…私はT県に生まれました。実家は神社の家系で、何百年とそこに暮らし、かつて地元の名士でした。
医師の家系としてもしられ、祖父母、また従兄弟をはじめ大変高学歴を誇っていました。

父親はK大院卒で、サラリーマン、母親はKT大卒で小学校教師でした。共にT高卒(祖父も)で、県内ではトップ高としてしられ、高い進学率とエリート高として知られていました。

しかし、母は、KT大(父よりは劣る学校だが)卒、T高卒、小学校教師という人もうらやむ経歴ー父よりは社会的に成功した職だと私は思いますーに満足せず、私たち兄弟(私、弟、妹)の教育に異常な執着を示しました。

一方で、それ(虐待)は、一人の女性としてのヒステリーでした。家庭、育児、仕事のストレスを溜め込む母はその苛立ちを、子供に向けたのです。
父は理想家肌で、妻である母の葛藤に耳を傾ける人間ではなく、全く育児にも無関心でした。KT大出、教員ということで安心してしまったのです。

私は一説にはベビーベッドから投げ落とされていたといいます。
また、意固地な母は、掃除や育児に手を抜く事がなかったといいます。(オムツを当時は布ですから)
冷たい川で(父も止めるのに)ひたむきに洗う姿は異常だったと父はいいます。

もの心ついた時は私は母の暴言にさらされていました。
子供のペースの分からない人で、決して子供の目線にたってはくれませんでした。
落書きをしたといっては、物を壊したといっては、異常な暴言をはかれました。
父は理想ばかりいう気持ちの悪い人でした。

母は「頭」をもつ女性ですから、理想ばかりのよく意見が父と衝突し、喧嘩が絶えませんでした。
父が屁理屈ばかりいうので、母はかならずものを最終的に投げていました。お漬物の瓶、茶碗…
父の頑固さは折り紙つきで、私でも、母なら投げると思います。

猫背が気に入らず、背中をたたかれました。(父にもたたかれました)
ピアノに異常な関心をしめし、うまく引けない、練習をしないといってはさんざんののしられました。
練習をしない、というのも、母の気分次第で、学校から帰ってくるなり、練習をしてない、などど矛盾した言動がありました。
教科書を忘れたといっては、街中で怒鳴り散らし、人がびっくりして、振リかえるほどでした。
練習会で引き間違えた時は、1時間以上帰りの車の中で怒鳴られました。

ご飯をよそっていたら、「お父さんとおじいさんがお酒をのむから、ご飯はよそっては駄目!馬鹿!」と頭をはたかれ、ご飯をジャーに「捨てられ」ました。

ファミレスで店員がオーダーを間違えました。母親にパフェがこず、品切れでした。
車の中で怒鳴り散らし、家にかえるなり、そこら中のものを投げつけました。
旅行のさい、行った先が気に入らず、父と車内で口論し、とばっちりで私と弟まで「うるさい!」と怒鳴ったこともありました。

小学校にはいると、鬼とかし、テストの点数で怒鳴られました。90点でも99点でも容赦しませんでした。
また教師の立場を利用し、ドリルなどを業者から買ってきては、私と弟の後ろで監視し、やらせました。
さぼったらめちゃめちゃに暴言をはかれました。「なぜ100点じゃないの!どうしてこんなことをまちがえるの!お前はだらしない!いいかげん!」というようなことでした。
「お前は憎らしい!」というようなことをいわれました。毎日のように。

とにかく、失敗が許されず、図工だろうが工作だろうが、体育だろうが、へまが耳に入ると異常に怒りました。
体育が苦手な私たちにいきなり、神社を50周走って来い!とどなった事もあります。(走らされました)

何せ、学校教師ですから、私たちの担任は「下っ端」ですから、母にぺこぺこしていました。
私はそのせいか、それとも、当時の風潮(現在でもしつけじゃない?といわれる)だったのか、誰にもいえませんでした。

祖父母はヒステリーぶりを知っていましたが、「なぜあんなにきれるのかわからない」と放置されました。

暴力はあまり覚えていませんが、体をはたいたり、髪をつかんだりしました。物を投げるのがお得意で、中学の時は電気コードを投げつけられました。(7歳下の妹の髪を結ってほしい、とたのまれー母は髪を結うなんて女性らしいことができないのです!)私が断ったからですーその時、おしゃれに目覚めていましたし、髪が結えない(三つ編みさえ)母は、異常というか、女の子らしい人生を送ってこなかったのだと気がつきました。

中学時代、いろいろ私にかまってくるEという女性がいて、私は毎日の彼女の攻撃に耐えられず、一度精神科に行きました。
不眠状態で苦しみました。

また、私は164cmという長身?で、すでに服のサイズがありませんでした。
おしゃれに目覚めた私は、挫折感を味わいました。
ストレスか、15歳の時アレルギーを発症しました。
Eのせいで、母は中学時代比較的私に協力的でした。

また、すでに私は孤独でした。テストでしか評価しない両親のもとで、周囲の人間が信じられず、友達もあまりいませんでした。そして、頭のよさで、周囲からねたまれたり、成績を言いふらされたりしました。

母の希望ではなく、私は自身の力でT高に進学しました。
しかし、また「勉強しない」と今度は折りたたみ机を投げたり、参考書をねだる(T高の方針)私に「ぼったくりめ!」とののしり、(母が一番しっているはずなのですが…)帰りの遅い私に腹を立て、私をのせたまま車を暴走させたりしました。

高校2年生のとき、私はクラスに友人がなく、ひとりぼっちでした。
担任の先生は何もしてくれず、とても傷つきました。
すでに周囲は交際や青春を謳歌していましたが、そういうわにも入れず、ガリ勉少女グループにいました。

私はO大に進学しました。しかし、そこで3回生、21歳のとき、おかしくなりました。
20歳のころ、すでにカラオケに明け暮れ、深酒をしていましたから、(私は女性にしては酒豪でした)今思えばサインだったと…

ゼミの人間関係や、サークルの人間関係がうまくいかず、それがなぜなのか、私は気付いてしまったからです。
突然、今までの人生に怒りを感じ、気がついたら、下宿の部屋がめちゃめちゃになっていて(本などを投げ散らした)24時間以上泣き続けていました。

大家の連絡で、母が特急で駆けつけましたが、私はこれまでの怒りを母にぶつけました。

しかしなれない土地で、精神科が見つからず、なんとか3回生の授業はこなしたものの、治療は十分ではありませんでした。
最終的に私が「うつ病」であることを、ゼミの教授につげなければなりませんでした。

4回生でついに学校にいけなくなり、私は留年、実家に戻りました。
しかし、病気の理解のない祖父(祖母は高校時死去)にいやみをいわれ、すぐに下宿に戻ってしまいました…私は大学の相談室に通った。3回生の時。病院はいかなかった。そこで、「おしゃれをしなさい。女性ですから、化粧をして、人生にゆとりをもちなさい」とアドバイスされた。

それで、私はなるべくおしゃれな服を買うようになった。
化粧もした。
考古学を学んでいたので、周囲はガテンな男性ばかり、土いじりもあるため、あまり化粧をする場でもなかった。

4回生の最後、留年し、下宿に戻った時、急に私は人生を楽しむことを知った。
K心療内科の投薬が効果があったからだ。(薬でまず立ち直ったことは、後の治療に悪影響をおよぼしたー薬にたよるため)、私は映画に興味をもち、映画雑誌を買い集め、英国の某俳優をアイドル視した。
英国のコメディーにはまり、ビデオを買い集めるなど熱中した。その行為は、かつて中学時代にアイドルなどになじめなかった事の代償である事はよく分かっていた。

おしゃれを楽しむこつも覚え、皮肉にも私は病になってから「精神の成長」「自分自身の人生を楽しむこと」をはじめたのだった。当時の医師のすすめでネットをはじめチャットを通し、いろんな人との交流をもつことができた。そのうちにある男性が私に好意をもってくれて、卒業後交際したが、結局分かれてしまった。

ある意味、青春の残照を楽しむことができた。

幸い、下宿に戻った時にいったK心療内科という病院がうまくいき、私は5回生をうまくこなし卒業しました。
T県に帰ったことで転院したのですが、後悔しています。

しかし無職で、いろんなバイトをしましたが、うまくいきませんでした。気持ちが悪かったり、「なにかこのコはおかしい」といわれて辞めさせられるのです。または、嫌がらせを(病気とはしらず)する同僚に耐えられず、辞めたりしました。明らかに仕事のプレッシャーにすら耐えられない状態であることは明らかであったが、私はなんとか前向きにやろうとして、深みにはまっていった。
バイトのストレスで、せっかくの趣味が中断したり、経済的に止めざるを得ず、青春を楽しむどころではなくなった。
そのうち、うつ病と簡単に考えて無理にバイトさせようとする両親と、反対するカウンセラーSが対立、母親は心を閉ざしてしまい、Sはカウンセリングを不自然に拒否するなど、治療は進展せず、周囲の圧力と、O大卒でこんなみじめな(職なし、収入なし)境遇に自分でも耐えられず、ヒステリーやリストカットを繰り返しました。

また、母は当時妹がT高への進学を拒否、少し評価の落ちるM高に進学したことから面白くなく、「妹のM高への進学は、お前が病気になったせいだ!」とののしられました。
M高は十分に進学校であり、妹は実際母の母校であるKT大の違う学部に進んだのですからこの批判は最終的に不当であり、結局周囲が怒って母にとりなして批判はなくなったが、私のむなしい怒りはとめようがない。

そのうちさまざまな依存症が出始め、氷を異常な量たべたり、サプリメント、水を10~20リットルのむなど異常な状態でした。トイレに駆け込む私はますますバイトが困難になり、なんども転々としました。
T県に帰ってからの転院は異常な回数となり、10回を超えると思います。

前主治医でもあるAが、4年前に、父に「なんらかの人格障害」であることを告げたようですが父にはその病気の理解がなく、私もいいかげんな説明しか聞いていません。大変残念に思います。

私が人格障害だと確信したのは去年の正月、現在の医師Kのカルテが見えてしまったからであり、それまでうつ病だと思っていました。うつ病で、ちょっと変わったうつ病と診断した医師もいます。
そこには「妄想性障害」とありました。私は必死にその病名をしらべ、その病気が私の状態にかなり当てはまることで愕然としました。(その診断がK医師自身のものか、A医師からひきついだものかはわからない)多少ネットなどに書かれている病状は私のより重いので、ショックでした。

周囲の友人は、土地柄もあり、あまりこまめに連絡をとってくれる人がおらず、仕事や結婚で忙しくT高卒(ほとんど県外にでてしまう)があだとなり、連絡先もわからない人も多く、私は孤独でした。
私は、男性と食事にいったり、映画にのめりこむことで、うさをはらしました。
そして、健康に見える独身女性が働いていない事はこの土地では恥ですので、とても辛い思いをしました。友人などが男性を紹介しても、バイトであることをあからさまに馬鹿にされる始末で私は追い詰められました。

またあるキャッチセールスにだまされ、私は300万ほどのローンを抱え、家族に嘲笑され、ますますバイトを辞められなくなり、なりふり構えなくなりました。金融関係(クレジットカード関係、銀行、請求書など)の郵便は家族により無断であけられ、私は屈辱を感じました。
また父は神経質で、私は隣の部屋のため、何かにつけて物音がうるさいなどどなられ、暴力をふるわれたりしました。

3年前、現在の夫Mと出会い、交際をはじめました。Mは私が病気であることを理解し、支えてくれました。
困っているほれた女性に、助けないなんておかしいよ、と私の慎ましやかな趣味の本や女性らしいお化粧などをこまごま買ってくれたり、デート代は全部だしてくれました。今までの男性では考えられないことでした。「私をわがまま」と非難したり、女性の友人すら去っていきました。
ひどい人になると、「娘さんのデート代はこれだけかかりました」と領収書の束を送りつけた男性もいたほどでした。(私は後で聞かされました)

確かに、私はその男性を振り回し、迷惑をかけたことは事実ですがその行為は明らかに私の両親のお金から返してもらおうという魂胆で、ほめられた行為ではありませんでした。父親はそのことで逆に私をどれだけ無理で辛い立場においていたか(それが男性への無謀なしがみつき(交際と交際費の無理な負担)になってしまったと)反省したようです。(それが15年の秋の謝罪につながったようです)

私はまた趣味に没頭する心の余裕を取り戻しました。

Mは高卒で、まじめに働く男性でした。私が大卒であることも気にしませんでした。
Mの両親は別の県からきた人間であり、Mの行動や生活パターンにその名残がありました。バイト暮らしであることをMが気にし無かったあたりも大きな理由です。
そして、その両親の出身地をMはとても愛していました。そして、その地は私が大学生活をすごした地と同じ文化圏である地方でした。そのこともお互いの理解を深めました。
父をはじめとするT県人気質に私は嫌気がさしていましたので。

明るい、ジョークの耐えない男性であることも、私には新鮮でした。
その代わり、金銭感覚はアバウトで現在も悩みの種ですが。

しかし、そのころ私は異常な不眠に悩まされ、生活、バイトに支障が出ていました。
前主治医にあたるA(この医師には複数回かかっている)に転院し、Aは睡眠薬を何種類もだして治療しました。その量は異常で、父はさすがに怒りました。調剤にかなりの時間がかかっていました。

私は、現主治医Kにたまたまいったのは2年前の正月で、それはカウンセラーSに不信感を抱いたせいで情けないことに、T県では、どこでも治療とカウンセリングを同時に行っていただけませんでした。

体制が整っていなかったからです。そしてSは、独立してカウンセリングを行っている女性でした。

Kは、不眠の原因がSSRIであることを見抜き、リスパダ―ルを処方し、睡眠薬を整理しました。
このような医師は初めてで、クリニックもきれいであり、転院をAが承諾するまで半年かかりましたが2年前の秋には医師Kのもとに正式に転院することができ、今日にいたります。

しかし、不眠の後、急に過食症に襲われ、危機的な状況になりました。家族には怒られ、私も努力しましたがとめられませんでした。どんぶり7杯、を食べてしまう自分に嫌気がさし、ますます絶望的になりました。

そのころ、父親が(母が否定的になったころから父が庇護的に)Mとの交際を認め、私にバイトを辞めてもかまわない、生活費を立て替えることなど(ローンの返済があと1年あった)を認めました。
それで私はかなりのストレスから開放されました。

しかし、リストカットや破滅的な行動は(特にものを投げる)その後も収まることは難しかったものです。
腕はよくみないと分かりませんが、ひどい傷だらけです。

そして、そのころふと知ったセラピストの元へもこっそりかようようになりました。過食を直すというのが当初の目的でした。

リスパダ―ルのせいだと気がついた時にはすでに1年が経過していました。そして、体重は30キロ以上増え、服が着られなくなり、女性として自分がいやになりました。Mが見かねて、服を買ってくれたりしましたが、みじめでした。
すぐに医師Kに進言し、服用を中止、過食もほぼ収まりました。

去年の春、ついに家族のもとを飛び出し、アパートを借り、Mと同棲し、秋に入籍しました。
ローンも返済が終了し、一機に家計は潤いました。

アパートを借りたことは、弟が(私が闘病している間に)医学部を卒業し、医師となり、結婚し、それに際し、父親が病気の娘が恥じだからと、病気で臥せっている私がその家にいるにもかかわらず一切の伝言もなく、両家の挨拶や打ち合わせなどを実家で行った分にかんしてその物音や話し声などで私は療養(睡眠)を妨げられ、挨拶に出ようにも(連絡されていないので)パジャマ姿であったりと、文句もいえず、大いに気を悪くしました。
来賓として教授や上司、同僚など(全部医師)をならべ、出席者も数も相当なもの、隣県で最高級ホテルでの挙式、その費用たるや、全部双方の親があっさりだしたことも腹の立つことでしたが、私が治療やローンなどの人生の過ちや憂さ晴らしで消えたお金や時間と比べると比較になる金額ではありませんが、惨めになりました。

そんな馬鹿馬鹿しい見栄だらけの豪華な式に数時間拘束される精神力に自信がないのと、30キロ増えた体重を親戚たちの前にさらす恥をかきたくなく、弟の結婚式は欠席しました。

今後私たち夫婦はそのような式をあげられることは不可能であり、それは夫個人の責任と私の甘さにありますが、明らかな「後継ぎ」差別に耐えられず、家を飛び出しました。
(家の間取りの、私たち兄弟に当てられた部屋の広さの極端な違いや日あたりを考えれば、一目瞭然です)
そして、ふとしたことから、その広い、日当たりのよい弟の部屋を使う事を(弟はその部屋にもう8年以上住んでいませんし、嫁をもち戸籍を別にした弟がその部屋を使用する可能性は今後当分ないにも拘わらず)父が私に許可しなかったことが直接の原因でした。この件は、母親さえ私の味方をしました。

今年の春には主人Mの同僚の進めで、公営のアパートに転居、現在にいたります。

医師Kの下での治療はかなり順調です、しかし、依存症やトラウマを精神科は癒せません。
カウンセリングはSを初め、たくさんの方にかかりましたが、癒せませんでした。
医師KのもとではIというカウンセラーにかかっています。

医師Kの下での治療というより、セラピストの治療?により、かなりの依存症やトラウマから開放され、今は「あっという間の29年間」の悲惨さからあっさり抜け出した、現在の穏やかな幸せがまだ信じられない状態です。
また、私は夫の籍に入ることで一族の重圧から解放されました。
現在旧姓であるT…という姓で、私はT…という姓で、親族が高名な医師(故人)であることが知れたり、問い詰められたりすることに恐怖を持っていました。幸い、1度くらいしかそのようなことはありませんでしたが、T…という姓は、県内西部各地にあるらしく、バイト先で「@@町出身でしょう」「いや、&&市出身でしょう」
「T…会社の親戚では?」と散々聞かれてうんざりした事もありました。(全部無関係です)
今は、全くそのようなことから開放され、夫Mの姓はT県ではめずらしい姓ですから、「他県人かしら?」と年配から聞かれることも多いですが、私は今は堂々と、夫のルーツがO県であるからです、と答えることにしています

私のような悲劇は何に根ざすのかと考えます。
しかし、答えは出ません。ただ、いえることは、あまりにテストや社会的立場(働く、学歴など)にこだわって、私の家族、私の周囲ー学校などーは「人間」を育てることをしませんでした。夫Mや弟たちはどこかで「人間」を育てる機会と人間に恵まれたのです。私は出会いがありませんでした。

私の人間のよさを評価してくれる人に出会う事が、発病以降であったことを残念に思います。
私の両親および祖父は人間的温かみにかけ、子供をほめることをしませんでした。
私はその中で自分をもつことができず、自己評価が低いまま成人し、精神のバランスを崩し、その埋め合わせ(闘病)はとても苦しい道のりになりました。
そして、いくら自活をさせることが目的とはいえ、23歳でまったく金銭的援助がなくなり、両親が大人として急に扱い(時にきまぐれに支配的になり子供扱いした)ことは、私を更に苦しめる、治療を悪化させる結果となり、「大卒の娘がバイトもしていない」という世間的評価で私をみたり軽んじたりして、私は更に人生を迷い、自信をつけるすべをみつけられないと感じ、辛い30年間でした。

現在、母は私に対しいろんな意味で矛先を収めているが、父がまだあつかましくも保護的態度をとるーそれはときに私を馬鹿にし、暴力に発展するー
そして、私がどのような治療プロセスをたどったか、を知ろうとせず、まるで自分の「おかげ」だといわんばかりのあつかましい態度ーに私はうんざりし、また傷つけられた子供に戻るため、夫の進言で、現在私は実の両親から距離をおいている。

私は、あつかましいかもしれないが、30年の苦労で、実の父と袂を分かってしまったと感じている。
父は、世間知らずの坊ちゃんで、仕事になんなく就職し、自身と家名と妻(母)のあふれる給料で、何不自由ない生活を送っていることのありがたさ、に気付いていない全くの苦労知らずだ。自分自身の力だけでやってきた、というような話方は私たちを辟易させる。
その背景に、母と祖父の収入があることを私たちは知っているからだ。
私のような「持たざる」者の努力や苦労など耳も傾けない。こんな親が日本全国どこにでも蔓延し、もっとひどいケースもあると聞く。

そして、私たちには救いがない。成人だから、と話も聞かない。
精神科にいきなさいと押し込めるだけ。制度も整っていない。心は自分でしか救えない。

幸い、私は虐待をうけたとはいえ、母と父の望みは高い教養をつけた人間に育てることでもあった。
少々過激すぎたが。T高のモットーは「自主自律」で、自分で探求し自分で好きなことをし責任は自分でとること、-であった。
そういう部分で、私は私なりにそのモットーをこころに刻み込み、自分で探求し、問題を追い求め、分析し、前向きに善良に生きることを考え、諦めずにやってきたと思う。過去多少奇矯な言動や行動もあったかもしれない。
今は、その努力がやっと報われ天は私にMという人間に合わせてくれた。
人生が新しい段階にきたことを感じている。