海さんの場合

 
 私の両親は私が小2のときに離婚しました。離婚間際には私と兄の目の前で下着姿の母を何度も何度も殴り飛ばしたのを見ていました。非力な私にはただただ震えるだけで母を救えませんでした。

 小2の時、最愛の母と父の離婚が決まり、父は私の意見など聞かずに私と母を切り裂きました。それから半年も経たない内に、今の母がやってきました。(私が小3のときです)でも、母親っ子だった私は隠れて母に逢いに行っていました。小3の時の先生は自分が母子家庭だったのもあってか、授業を抜け出して母に会いに行く事を手伝ってくれていました。(そのとき母は目の病気で入院していました。学校に行く途中に、貯めたお小遣いで母の為に花を買っていったこともあります。母が手術の日、冷たい廊下に体育座りをして、ひたすら母の手術が終わるのをひとりで待っていた事もありました。)でも、なぜかそれがバレて、バレる度に殴られて蹴られて土下座させられてました。1度先生も家に呼ばれて一緒に土下座させられました。
小5のときに最愛の母が亡くなりました。亡くなった母の妹が引っ越した私達の居場所をつきとめて電話をかけてきて、私と兄貴を葬式に参列させてくれるように頼んだようですが、父は『お前んとことは、もう縁は切った』と言って、葬式にも参列させてもらえませんでした。最愛の母の死と同時に父の口から告げられたのは、継母の妊娠でした。ヘビースモーカーだった継母はすぐに流産してしまいましたが・・・。

 私は親になんとか誉められたくて、小学生のときから掃除も頑張っていました。中・高生のときは父と母と兄貴と私の分のお弁当を毎日作っていました。食事の後の片付けも洗濯物を干してたたむのも、私の仕事でした。文句のひとつも言わずにやっていました。文句を言えば殴られるから。でも、失敗するとこっぴどく罵られる。母の日コンクールのために描いた絵は銀賞をもらいました。でも、その絵の中に居る母はあくまでも私の理想の母。継母が床の雑巾がけをしてる姿なんて記憶がないんです。

 私が中学でリンチされた時、継母に言っても何もしてくれなった。助けてはもらえなかった。『うるさい』と言われた。だから私は子供達が虐めにあったりしたときは『ママは何があっても絶対にあんたの味方やから安心し。なんかあったらママが守ってやるから』と話しています(そう言いながらも虐待していたので、矛盾してるんですよね・・・・)。

 高1のとき、晩御飯を食べていたら、突然お腹の激痛に襲われて椅子から転げ落ちて痛がっていたんです。そんな私を見て父は『飯食いよる時になんばしよっか!!』と叱咤して、継母も『さっさと食べて片付けて』と言いました。その後の記憶はありません。ただ、次の日誰の付き添いもなく、一人で病院に行って検査をした事を覚えています。急性腎炎かなんかだったと思います。その後学校に遅れて行って先生に『こんな時間に来て(5時間目かなんかでした)何様のつもり?』と言われ、病院に行った事を言っても信用してもらえませんでした。
アメリカに住んでいたとき(両親と私だけで行きました当時、私は高2)も食事はいつも別々の部屋で摂っていました。食事が済んでもTVを見る事は許されませんでした。逃げるように自分の部屋に戻っていました。アメリカ時代は両親との会話も殆どなく、ただただ異国で孤独をかみ締めていました。

 アメリカに居たとき休みのたびにあちこちを掃除していた。台所を念入りに掃除した晩のこと。いつものように一人で食事を摂っていました。お味噌汁の具を食べようとしたら変な食感にあいました。入っていたのは虫でした。(多分、台所によくいるあいつだと思います。)叫び声を上げて吐きました。指を突っ込んで何度も吐きました。継母は『そんなことくらいで泣きなさんなよ』と一言。丁度仕事から帰ってきた父は泣きながら吐いている私を見て『なんばしよっとか!!』と罵声を浴びせました。
父は私だけが出る運動会には1度も来た事がありません。部活の大会にも。でも、兄貴が出てる運動会には来てました。野球の試合も観に行っていました。あんなに真剣に応援してもらえる兄貴が羨ましかったです。
兄貴は機嫌が悪いと私にヤツ当りしていました。髪の毛を引っ張って引きずりまわされたり、背中やお腹を蹴られて吐いた事もありました。

 私は家の中で『私が中心』になることがなかった。いつも脇役。だから中心になれるのであればどんなことでも我慢した。たとえそれが所謂『性的虐待』に分類される事でも。

 高校を卒業して、アメリカから帰国した私は両親と顔を合わせるのを避けるため、それこそ朝早くからみんなが寝静まる頃まで働いていました。朝から夕方まではガソリンスタンドで走り回り、某宅急便日の仕分けの仕事をして、夜はホステス。実家から逃げるために岡山のヤクザのやってる店を住みこみで手伝いに行った事もありました。そして親から逃げるように結婚しました。そしてすぐに長男を身篭りました。継母に育児の事で相談もできず、産みの母親はすでに亡くなっており、育児の相談をする相手も居なく、当時の夫は出張がちで家に居るのは年の3分の2程。亭主関白だった夫に育児の相談もできず、閉鎖的な環境の中での長男の育児。私は育児ノイローゼになりました。夜中に子供に起こされて、朝起きられなくて、夫を起こす事も出来なくて、夫は遅刻するくらいなら、と会社を休んでしまう。毎日それの繰り返しで私は自分を責めたてる毎日でした・・・。私、完璧主義なんですよね。それが仇になったのですけど・・・。

 いつからかは忘れましたが、長男が幼い頃から、よく手を上げていました。顔に傷を作る事もしばしば・・・。今でも分かりません。何故、長男に対して虐待をしていたのか。若かったという言葉だけでは片付けられる事ではありません。若くても、立派に子育てしてるお母さんはいらっしゃいますから・・・。・・・・子供が子供を育てていたんでしょうか・・・・・私は身体だけは大人になって、心は子供だったんでしょか・・・・・。口で言っても言っても、何回も同じ事を繰り返す長男・・・・『次は守るから』と言って、約束を破りつづけた長男・・・・。長男に私が『言わせていただけ』だったのでしょうか・・・・次男が産まれてから、夫が次男に手を上げるようになりました。私は身を呈して、次男をかばいましたが、私を次男から引きずりはがして、手を上げていました。離婚した後に言われたのですが、長男に虐待をするあたしへの無言のメッセージだったらしいです。
千葉に引っ越してきて1年が経つか経たないかのうちに長男に問題行動が出始めました。万引き、家出、お金の使いこみ・・・。長男に対しての暴力はだんだんエスカレートしていきました。私、そのたびに怒っていました。叩いたり、蹴ったり。端からすれば、なにがそんなに憎たらしいのか、と見えたんじゃないでしょうか。怒るたびに長男は家出をする・・・帰ってくればまた怒る・・・悪循環でした。そうこうしてるうち、学校でも問題行動が出始め、授業中に大声を出したり座って授業が受けられなかったりで、養護の先生もついていました。

 市内での引越しが決まり、学校も転校して学校生活は落ち着いたのですが(イイ先生に恵まれたからです)、家出は頻発しました。警察に保護されることも増え、私は精神的に追い込まれていました。そして、去年の夏三男の父である彼に『このままだとあの子を手にかけてしまうかもしれん』と告白しました。彼はすぐに児童相談所に電話をしてくれました。担当者が私と話したいとの事でしたが、そのときの私はもう口を利ける状態ではありませんでした。その日の内に児童相談所の方が来られて、長男はそのまま緊急保護されました。1ヶ月の保護の後、帰宅しましたが、やっぱり家出は直りませんでした。私は、相談所で長男と、叩いたり蹴ったりしないと約束したので、できるかぎり頑張ったのですがそれでも長男はお母さんが怖いからと、家に帰りたくないと家出を繰り返し、そして、小3の冬にまた相談所に保護されました。その時も1ヶ月の保護でした。

 本人が更正施設に行きたいと、私に言ったのです。少年院みたいに辛いところだと、周囲からも聞いていた様なのですが、それでも行って頑張りたいと。本人にそこまで強い意思があるならと、私も泣く泣く承諾しました。入所は今年の一月でした。それからは毎月、私一人で面会に行ってます。長男は、見違えるように変わりました。一度、施設の方が家庭訪問にこられたのですが、長男が変われたのは、お母さんが変わったからだ、と言ってくれました。
あの子が施設に入ったとき、ホッとした自分が居ました。毎日、仕事が終わるたびに『今日も居ないんじゃないか』って心配しながら、帰路についてて、いなければ大きなお腹と(三男を妊娠中でしたから)疲れた身体を引きずって探しに行ってたから・・・・・・・。でも、面会に行くたびに、少し大人びたあの子に逢えました。言いたい事も言えるようになってきました。元々、田舎のわんぱく坊主みたいな所があって、だけど素直な子でした。そういう部分が戻りつつある。大切な芽を摘みきってしまう前で良かったと今は思います。

 今思えば、父は私生児でした。亡くなった祖母がある大きな会社(名前を聞けば皆さん知っているような会社です)の跡取に見初められたらしいのですが、祖母は彼に婚約者が居る事を知って、身篭った事を内緒にして彼の前から姿を消したらしいです。父が11歳のときに認知された事を、父の戸籍謄本を見たときに知りました。だから父は『父親』がどういうものか知らないまま育ってしまったんだと思います。父親として私にどう接してイイか分からなかったんじゃないかと、母親になって暫くたって、思えるようになりました。今現在、両親に対して憎しみの感情などはありません。あの時は父はああいう風にしか私に接する事が出来なかったんだと思います。私がそうであったように・・・・・。

 虐待の世代連鎖を何がなんでも、私で止めたいとは思います。
もう長男に辛い思いもさせたくないんです。あの瞬間は長男も辛く、私も辛かった。なんで親にやられた嫌な事を、子供にやってしまうんだと、自分を責めて、でも、どこかで自分を正当化しようとしてる醜い私。暴力になんの正当性もないのに。今、やらなければいけないことは見えています。何よりも先に虐待を止めて、長男が将来、私と同じような病気にならないように、誰よりも愛情を注いで見守って行きたいと思っています。万が一、彼が将来、私と同じ病気に苦しむ事があったなら、その時は精一杯、力になってやろうと思います。

 私自身の事については、まだ、思案中です。今までは『臭いものには蓋をしろ』ではないけれど、ずっと後回し後回しにしてきて、でも、いつまでも目を反らしている訳にもいかなくて、やっと向き合おうと思えるようになりました。例え、立ち向かう事が苦しくても、辛くても、今はもうそれをやっていかないと仕方がないんじゃないかと思っています。逃げてばっかりでは何の解決にもならないんじゃないかと思っています。ただ、自分自身に起こった過去をどう言う風に飲みこんでいいのか、向き合えばいいのかが分からずにもがいています。それはこれから主治医と時間をかけて、話し合って行こうと思います。

 虐待の被害者でもあり加害者の私だからこそ感じたのですが『親からの無償の愛』というのは、子供の成長に大きな意味をもたらします。私の父も、私もひょっとしたら『無償の愛』がわからないまま大人になってしまったのではないかと思います。だからあんな接し方しか出来なかったのかもしれない、と思います。生きていく上で、子育てをしていく上で『なんの見返りも要求せずに、ただ直向に愛してくれる存在』は大きな物です。簡単なようで難しい。私にとっては永遠のテーマかもしれません。