HIDE様の闘病記


HIDEのうつ病との共存(まだ完治はしていません。2007.3.1)

◎発症の原因は、人間関係です。私はギャンブル依存症ですがギャンブルとは関係ありません。
詳しくは人を傷つける可能性があるので書けませんが、ナイフで心臓を抉り取られた感覚です。それも大勢の会議の席上で・・・職場ではありません。仕事はやりがいもあり、人間関係も良好でした。

◎その翌朝
意気消沈・めまい・吐き気・などに襲われ、出勤が出来ない状態になってしまいました。
たった一日でです。その前日まではなんともなかったのに・・・・・
妻に仕事を休んでもらい同行してもらいました。(一人では歩けませんでした)
診察の結果はうつ状態 坑うつ剤と安定剤を処方され帰宅しました。
この日から、壮絶なうつ病との闘いが始まるとは誰も想像できませんでした。
・処方薬 16年6月23日 ドグマチール50mgX3 メデポリン0.4mgX3

◎平成16年6月より9月まで
仕事(福祉施設の指導員)を続ながら、服薬治療を続けていました。しかし、7月末より症状が悪化し、出勤できない日が数日続きました。めまいや吐き気が朝から襲ってきました。主治医と相談して、診断書を書いてもらい8月一ヶ月の休職となりました。
休職期間はとにかく休む事に専念しました。自分でも,もう大丈夫だろうと感じる日もありました。しかし、ほとんどの日は寝て過ごす事が増えました。また居間で横になって、うなっている日(死にたい死にたいと言いながら)が多くなりました。
8月31日の夜、自分のうつ病の源になっている人に電話を入れました。自分ではどうしても納得の行かない事ばかりで、直接話さなければ気がすまなかったのです。電話を入れた結果はひどい結果となりました。ひどい対応をされた「もう貴方とは何の関係も無い」と言われ一方的に電話を切られました。結果、私はパニックを起こして家の食器棚を壊してしまいました。何とかその日は薬の力によって寝ることが出来ましたが、パニックのとき妻が必死になって止めてくれている姿が忘れられません。GAの仲間が急を聞いて自宅まで来てくれた。本当にありがたかった。

そして翌日の9月1日より復職をしました。かなり無理のある状況でした。
私の職場は、24時間稼動しているので、勤務体制が複雑です。宿直の日は連続32時間勤務をしなければなりません。
それでも何とか3週間は仕事に出ました。休みの日は、いつも家でうなっていました。
9月19日、出勤時めまい嘔吐をして、たまたま家の近くだったので妻に迎えに来てもらいました。この日は職場に連絡して休みを取りました。
翌日のシフトは初めから休みでした。家で発作?がおき、めまいと吐き気に襲われ救急車で搬送されました。頭部CT検査では異常なし、精神的なものからきているのではないかと、当直の内科医に言われ点滴を打ってもらい帰宅しました。
翌日、かかりつけのメンタルクリニックに行き事情を説明、休職するようにいわれ診断書を書いてもらいました。
翌日職場に事情を説明して、その日より休職となりました。それから契約期間である11月末日を持って契約更新はなし、退職という結果になりました。
仕事でうつ病になったわけではないので、非常に残念な結果になってしまいました。
それだけが心残りです。
処方薬・デプロメール50mgX3 レキソタン2mgX3 サイレース10mg寝る前

◎再度休職10月と11月
一通の手紙が届いた。私がうつ病になった原因のところからです。内容はここでは伏せておきますが私は地獄へ落とされたような気持ちになった内容でした。瞬間的にパニック状態に陥り、安定剤などを40錠のみました。しばらく茫然自失になっていましたが、
急に不安になり、妻に仕事場に連絡しました。その後の記憶はあまりはっきりせず、気がついたら妻が119番へ電話をしていました。
救急搬送された病院で胃洗浄を受け(死ぬほど苦しかった)点滴を入れられて、落ち着いた後タクシーで帰宅しました。

◎10月2日
OD(オーバードーズ)をした翌日かかりつけのメンタルクリニックに妻同行してもらった。一人では歩けない状態であった。受診の結果コントミン(メジャートランキライザー)を追加。とにかく状態悪く希死念慮も強かった。
◎10月3日より10月30日
ほとんど毎日寝込んで過ごす。時たまGAミーティングに出席するが一人では出られない。妻に同行してもらう。一週間のうち5日は居間で寝込んでいた。この頃より「死にたい、死にたい」と言う様になり状態は最悪の日々が続く。

◎11月1日より15日
比較的落ち着いてきた。週のうち寝込む日が減り単独で外出できるようになった。しかし
11月13日 GAミーティング出席し帰宅後激しいうつ状態に見舞われる。今まで経験した事のないような激しい状態で、「死にたい・殺してくれ」といいながらうなっている状態が続く。絶望感に襲われる。
11月15日メンタルクリニック受診し入院の話を詰める。レボトミン追加。

平成16年 11月24日より入院決定 精神病院に偏見は無かった。逆に安心してすごせる場所と考えると安心できた。

◎入院日記PART1
11月24日(水)
***駅よりタクシーで病院に向かう。12:30到着。
院長の診察・問診が終わったあと入院の手続きに入る。僕が入る病棟はアルコール病棟だったが、なかに2部屋一般精神・病統合失調症・人格障害の部屋があり、その部屋だった。
同室者は、僕以外は全員統合失調症の患者さんでした。コード類、サスペンダー、電動シェーバー等は、ナースステーション預かりとなる。夕方妻が面会、着替えなどを持って来てくれた。僕が入院した病棟はアルコール依存症病棟でした。これは自分にギャンブル依存症があることと、アルコール病棟のほうが日中静かに静養できるからだそうです。
確かに、静かな病棟でCDなど好きな音楽を聴いてのんびり過ごせました。

11月25日(木)
午前中頭部CT検査、入院後初めての入浴は看護師同伴だった。(体の傷や自立度をチェックするためだそうです)次回からは一人で入浴となる。ベッドにカーテンはなくプライバシーを守る事は難しいが、精神病院なので仕方がない。気分はまあまあ、入院生活にも少しずつ慣れてきた。今日は妻の誕生日。夕方ケーキを持ってきてくれた。
11月26日(金)
院長の診察日、ギャンブル依存症の事を話す。中間施設のメッセージが月に2回あり、毎週土曜日のAA(アルコール依存症の自助グループ)ミーティングが夜にあり(院内であるので出席を許可された、週一回でも言いっぱなしのミーティングに出られるのは助かる。)日曜日にはAAグループのメッセージがあるので、出席をお願いした
11月27日(土)
昼間は何もすることがなく、CDを聞いてのんびり過ごす。
夜は院内で行われているAAミーティングに参加。12ステップミーティングは一周間ぶり仲間の話を聞いて、自分も分かち合えてよかった。3年ほど前までは僕はAAにも出ていたので、知った顔が何人かいて懐かしかった。
11月28日(日)
病院にいると体がなまる。今日から筋力トレーニングとストレッチを始める。PM、AAメッセージ 今日は「アルコールからの開放」仲間の話は本当に力をもらえる。

11月29日(月)
特にすることなく日がな一日CDを聞きながらのんびりと過ごす。
今日から処遇がC‐3になった。
ここの病院では処遇が3段階に分かれていて、Aの人は病院から外へ出られない。
Bの人は職員同伴、Cになるともちろん許可が必要になるが単独で散歩や買い物OK
おもっていたよりも早く開放処遇になった。外出時間は10時から16時、昼は病院へ帰らないといけない決まりになっている。
■入院日の決定から入院まで3日あった。この間僕が没頭したのはPCに保存している音楽をCD‐Rに焼く作業
合計60まいのCDーRを持ち込み、荷物チェックに立ち会った看護師はあきれていました。入院が決まるまではぼろぼろだったのに、入院できるという安心感から3日間良い状態でした。もっともここまで徹底する事自体病気なのかも・・・・・

こんな調子で、2ヶ月入院して1月中旬に退院。自宅療養に切り替える。

17年1月中旬に退院してから、よかったり悪かったりを繰り返す。効うつ剤は、デプロメール、トフラニールを主剤として、細かい変更を何度かで繰り返すが、改善は見られなかった。悪いときはひたすら寝るしかない。そのときお世話になった薬がレボトミン。
最初は5mgだったが、段々耐性がつき、最後には100mgを服用するようになり、頓服を変更したりした。副剤として、色々な薬を組み合わせをしてみたが、改善の気配は無かった。

17年の4月には、幻聴を経験した。うつ病ではまず無い症状という知識はあった。自分は統合失調症を疑ったが、主治医はそれを否定した。とにかく対症療法としてセロエクセル
を追加処方、2週間ほどでおさまった。主治医の見解では、発症時に強いトラウマを受け
それが無意識の中に残っていて、何らかの形で幻聴を呼んだのではないかと分析した。
自分は以前からフロイトやユングといった精神分析家の本を読んでいたので、納得することにした。また幻聴が出たら、薬で抑えれば良いと思うことにした。

発症前から通っていた通信制の大学のレポートやスクーリングは、調子のよいときはこなせたが、スクーリングを途中で断念して帰宅することも何度もあった。

こんな調子で平成18年を迎え、少しずつ回復基調を感じ出した。平成18年4月、5月には
2週間ずつ、大学の施設実習(病院・クリニック)をこなし、このまま完治に向かうのではという予感もしていた。・・・・・しかし、この病気はそんなに甘くなかった。

◎平成18年7月2度目の入院へ
18年7月初旬、特に理由も無いのに、希死念慮が起きた。自分が自分で無いような気がした。気がついてみると、家の近くの道路で、車に飛び込もうとしていた。30分くらいそこに立ち止まった。気がついてみると、自宅で座り込んでいた。恐ろしい経験だった。
その日の夕方、妻と共にクリニックを受診し、即座に緊急入院となった。

◎2度目の入院平成18年7月から9月
入院生活は経験しているので慣れたものだった。ただ、今回はうつ病の治療に専念した。
ギャンブルの問題は横においておいて、休養と服薬だけを考えた。入院期間中、どうしても受けなければならないスクーリングがあったが、院長の配慮で4日間受けることが出来た。退院時には、モチベーションも上がり、確実に回復期に入っているといわれる状態だった。

◎最後の変薬 平成18年10月
主剤を飲みなれたデプロメールからパキシルに変えた。主治医にとっても自分にとっても
一種の賭けだった。効果は1週間ほどして現れ、確実に効いている実感があった。その日から、家で寝込んでいる回数も減り、一日中寝込むことは無くなった。波はあったが、確実に上昇している感覚だった。

◎平成18年12月から平成19年2月まで
12月からは目標としていた国家試験の勉強に取り組むことが出来た。正月返上で、試験日の1月27日まで、全力で走りきった期間だった。うつ症状はほとんど見られず、少し調子が落ちていると感じれば、すぐ昼寝をすると気分は回復した。
2月からはクリニックのデイケアに通い、体調を整え体力をつけ、生活リズムを取り戻す訓練を少しずつ始める。まだ、いつ就労できるか分からないが出来ることを無理せずにやっていくことだと感じている。国家試験の結果はこの冊子が出来るころ判明する。精一杯やった結果だから悔いは無い。今はGAに通いつつ、自分の2つの病気「ギャンブル依存症」と「うつ病」に向き合っている。

気がついたら、この3年間、多くの仲間や家族や関係者に支えられていた。病気のときはなかなか気がつかないが、今は冷静に考えられる。「うつ病」は再発の多い病気として知られている。発病前の自分に戻るならまた再発するだろう。それは「ギャンブル」も同じ事。プログラムを使っていてよかった。GAに出会えてよかった。本当にそう思える自分がいる。今はゆっくり歩くときだと信じながら、2つの病気から逃げないで新しい生き方をしたいと思えます。