のりちゃん様の闘病記


のりちゃんの「もがく『精神病』の歴史」

発症要因
1:燃え尽き症候群


今振り返ればもしかしたら大学卒業前後に発症していたのかもしれない。
2人の弟達は高校中退で私は「彼らの分まで勉強をしないといけない。」と次男が退学になった時の母親の背中を見て誓った高校2年生の春。
それから勉強に打ち込み、模範生となり公募であったが推薦の権利を得て大学へ進学。
推薦の恥をかかぬよう、中学の頃のいじめでまともに勉強できなかった鬱憤を解消するかのように勉強をしていた。
2回生の時に指定校推薦となり、先輩として恥をかけない成績を残すため更なる勉強に打ち込んでいた。大学時代はまともに遊んだこともなかったしアルバイトも短期しか経験がなかった。
しかし4回生になった時から自分のための就職を考えてから悩み始めた。
今まで「ほかの人のため」にやってきたような気がしたのだ。
「自分のために4年間何をしてきたのだろうか…。」
そして就職活動をする余力も残っていなかった。度重なる就職活動の失敗と焦りや不安も負荷がかかっていた。卒業論文は仕上げることはできた。
提出した後、「嗚呼、これで私の役目は終わった。」と力尽きていた。
アルバイトも決まっていたが長続きせず、未来に対する不安が募り、「何かやりたい」と思う気持ちも湧かなかった。
この時点で「うつ」と同じ症状が約1年続いた。その時は「ただ休みたい。今まで頑張ったのだから。」と思っていただけであった。

2:摂食障害とうつ状態

平成13年3月。某企業に9割内定と言う通知が来る。健康診断の結果「異常なし」であれば晴れて正社員登用で恐らく順風満帆に過ごせるであろう、やっと両親を安心させることができると思っていた時でもあった。
しかし、健康診断の結果「肝機能障害」と言う症状が発覚。これが決め手となり1割の不採用となりショックを受ける。
内科の医師から減量を薦められる。私も内定取消の悔しさと名誉挽回の為、必死になって運動と食事制限を行った。
「とにかく早く結果を出したい。」そう思って過酷の減量をして半年35kgの減量に成功。ピークの時は1日4時間のウォーキング、1200kcalの食事制限の下で行っていた。食事も肉は食わず、穀物はおかゆ、マーケットもコンビニも入店厳禁。ウォーキングの際に小銭は持っていかないと徹底ぶりであった。
限界が来たのは翌年2月。食事を摂るのが怖くなり、一口箸を口に持っていく度に巨漢であった私が頭によぎり、食事がとっても辛くなっていた。
「とにかく食べないと生きていけない。」それだけの理由で食事を摂っていた。
摂取後、「こんなに食べてよかったのか?太っていたらどうしよう。」と不安がよぎった。
本当は楽しみだった食事の時間が恐怖の時間に変わった。リバウンドが怖かった。
この状況を内科の医師に告げ、精神科を紹介してもらい通院。これが始まりだった。実は契約社員の内定が決まったが、「今のままではちょっと無理である。」と精神科医の意見で断念。8ヶ月の休養を余儀なくされる。
処方はデプロメール25。3ヶ月後はデプロメール50とセルベックス。残像は2ヶ月で消えたものの肥満の恐怖は拭えず、過剰運動と粗食過ぎる食事はその年の秋まで続いていた。やっと「肉」がまともに食べられたのはその年の秋であった。
と言ってもステーキで例えれば「サイコロステーキの大きさで3つ」。それも恐る恐るでの摂取だった。まだ油の部分は鶏肉を除いては食べられなかった。大きな変化は楽しい時間を少しではあるが取り戻してきたことか。(メニューによっては地獄と感じた時もあったが。)
「もう少し時間がかかるでしょう。後は如何に貴方が割り切れるようになるか。」
その後も経過観察として投薬と診察が続く。

3:苦悩の日々

平成15年。行政書士の資格をとろうと独学で勉強をはじめる。
しかし、昔と違って全く集中力が持たない。せいぜい1時間が限度で休憩を入れても30分しか持たなかった。また「うつの波」の変動が激しく悩まされた。この頃にデプロメール50を1つ足され安定させながら勉強をすることになる。
試験の結果は不合格。次の年の受験を考えたが自信をなくしてしまい、再び就職活動を始めるようになる。
平成16年。病気のことはクローズにして再開することに。減量後、求人に応募してみると「是非面接を。」と言う企業が多くなり多忙になる。しかし、何社も何社も不採用通知。
「一体何が悪いのだろうか。」「履歴書の書き方が悪かったのか。」「コミュニケーションがおかしかったのか。」と悩むようになりその「サイクル」から抜け出せない状態になる。
この頃にドグマチールとデパスを処方。安定する。
そんな中、1社、短期ではあるがアルバイトとして採用される。
面接時は「調理」の配属になる予定だったが、勤務初日に「検品」に変更。
「ミスがあってはいけない。」「社員に頼ってはいけない。」「久々に働ける喜び。」「病気がバレないかと言う不安感」が強く、細部まで商品を早く確実に体調が悪くても集中して勤務。
休憩時間や帰宅後は日に日にぐったり感が強まる。さすがに週5日8時間は厳しかった。
そして10日後、通勤中に動悸が起き苦しむ。トレドミン50を2錠処方。「職場配置の転換が必要である。」と医師の意見。
責任者に報告し、協議の結果退職となる。もし「調理」だったらここまで神経質になって勤めることはなかったかもしれない。
この件を教訓としてオープンにして就職活動を行うこととなる。これによりバレる不安感がなくなった。気分が楽になって面接に行くことができた。
9月にある派遣会社からの紹介で某大手食品会社に派遣社員として登用されるも3日で解雇。
派遣元の企業から「やはりのりちゃんさんは辞めてもらいたい。」と言うことが人事から通達があったらしい。
それ以降、就職活動をしても平成16年9月~平成17年10月まで1つも採用通知がなかった。
その間にも「うつの波」の変動があったが比較的少なく「安定期」になっていた。
食事のほうでは薬のおかげか罪悪感がなくなっていた。
「回復したな。」と自覚したのは「菓子パン」に興味を持ったこと。メロンパンが好きで「カロリーは高いが、半分なら大丈夫だろう。」と摂取。あの味は感激した。
「残りは明日にしよう。」と次の日の食事が楽しみになってきた。これは大きな進歩である。肉類も少なめではあるが食べきれることができた。両親の配慮もあったので感謝している。
炭水化物もおかゆからやっと白飯が食べられるようになった。外食も適正カロリーの食事を注文できるようになった。
甘いもの好きの私は、おやつに関しても自分で作ってカロリーを抑えたり、市販のものでも適正な量を摂取できるようになってきた。
平成16年11月。「摂食障害については問題なし。」と医師から告げられ完治宣言が出された。
これは1つの自信にも繋がった。

4:デイケア・作業所のすすめ

そんな中、障害者職業センターがあることを保健センターで知り相談をすることに。
相談員曰く「ワンステップ戻って『デイケア』『作業所』等で体力や実績を積んでみたら如何でしょう?今ののりちゃんさんにはそれが必要なのですよ。」
しかし、私は「早く職に就きたい。」と言う焦りから就職活動の道を選択した。
平成16年9月~平成17年10月の期間。体調が悪ければ休み、良ければ活動をするの繰り返し。
よく「堂々巡りの悪循環にあまりならなかった。」と思った。安定期でなかったらまた「悪循環」が始まっていたであろう。
平成17年10月、短期ではあるが警備員のアルバイトに採用。しかし、12時間の労働がきつく辞める事に。
同時期にデイケアに通所することを医師に伝え、同年11月。デイケア通所が始まった。
またこの頃からコミュニケーションを図る為、地域支援センターへの出入りも多くなった。
当初の目標は「来年4月から体調と相談して就職活動をしながらデイケアに通い、採用後デイケア期限を迎えるまではデイケアを『補助輪』としてデイケアに通いながら勤務をし『Take‐Off』を目指す。」を目標に掲げ1年間の契約をした。
デイケアにはすぐに馴染めて翌年1月から「そろそろ活動を再開する準備をするか。」と考えていた矢先の時だった。

5:介護うつ

平成18年1月。同居している祖母が右足大腿骨を骨折し入院。
手術は無事成功したものの祖母自身が初めてのケガの入院。認知症でもあり、リハビリ内容もまったく憶えていない。自分からもリハビリをしないので私と母が交互に毎日病院へ行き自主的にリハビリを敢行。
そんな中、まだ歩けない状態なのに医師から退院勧告を受け、一家が悩む。
「これ以上家族からうつ病を増やしてはならぬ。」と私は意を決し、週5回のリハビリを告知後から退院する間や自宅でも1時間行わせた。 もちろんストレスが貯まり、その捌け口がデイケアプログラムに吐かれていった。
これにより「平成18年の就職活動は断念。」をせざるを得なかった。何時、補助つきでもいいから歩けるようになるかわからなかったからだ。
毎日が試行錯誤だった。けど、夏ごろには歩行器を使って外で散歩ができるまで回復できるようになっていた。
しかし、私のストレスは耐え切れず8月にはダウン。トレドミンを足され休養に入るが、周りからの薦めにより「ホームヘルパー2級」の勉強をする。
正直厳しい状況の中だったが12月に資格を得たことはうれしかった。
またどんな厳しい体調でもデイケアは通所していた。なぜなら職場でも休めない状況があるのでその練習であると思ったからだ。

6:現在

うつの波はあるがまた最近(3月21日現在)安定してきている。
食事のほうは全く問題なく、適量がわかってきたので調整ができるようになった。
今でも「食事は摂れてる?」と医師に聞かれるが、うつの波が落ち込むと食事が取れないケースがあると言う事で一応訪ねるということらしい。
だが、投薬治療と診察を受けている間は「完治」とは言えない。「安定期の中にいる」と言う表現が妥当だろう。
就職活動も再開し、病気のことは不利を承知でオープンで挑んでいる。
当然「完治」とは言うことはない。「安定している状態」と質問には答えている。
風邪を治癒するのにも投薬と診察が必要であり、「完治」すれば通院する必要はない。
通院する必要がある―だから「完治」とは言えないのだ。
就労に関しても医師とデイケアスタッフとの見解が違う。妥協しなければならない部分もあるが、「無理せずできる場所」で勤めていきたい。
願わくば資格を生かした職に就きたい。

7:最後に

デイケアメンバーの一部からは「うつ病には見えない。」と言われる。
通所の時でも万全な体調の日は指折り程度である。しんどい時もあった。だが、就労したら常に休みを入れることはできない。
経済的理由で週1回だけの通所だが、「その日の体調でどれだけの負荷をかけて大丈夫か。」それを習得するために通所を決断したのが理由である。
例えば、仕事に就いても「その日の体調が9ならせいぜい『7~7.5』位」とセーブしてコンロールをする、と言う技術を習得するために。
この病気になって「自分の気質(性格)」を見ることができた。
「たまにはいい加減な生き方をしてもいい。」そう思えてきた。
また障害者の立場でいろいろ考えさせてもらっている。「頑張れ」と言う言葉をよくかけていた。しかし、これは場合によっては「相手に毒を盛る言葉」でもあることを学ばせてもらった。
例えばマラソンをしている選手でこれ以上走れない選手に「頑張れ」と言っても「俺は頑張っているんだぞ、今は苦しいんだ。」と選手は思っているだろう。
当然、社会の風当たりは冷たい。「うつ」と言うのは「1つの個性」。
その「個性」を認めてもらえないのが大変に悲しいこと。
クローズにして就労している人も多くいる。その人たちはとっても辛い思いをしている。
通院日に休日が取れない。薬を隠れて投薬しているか「胃薬だから」とごまかして投薬している。うつの波が来て、休みたいが休めない。そして「再発が怖い」。
私も就労したとして一番不安なのは「再発」。
長期休養して居場所がない―このような社会でいいのだろうか?
私の生きる道―もしかしたらもう「道標」ができているのかもしれない。