そううつ様の闘病記

時期 症状と苦しみ 気持ちとひらめき
1992年頃

子供の腫瘍ができて不安になる。
大学病院に連れて行く。不安で恐怖に悩まされて精神科を訪問。
主治医の「じゃあ、不安をなくす薬をだせばいいですね」に呆れた。

とにかく、焦っていた。
わが子供に何かあったらどうしようと・・・

1994年頃

大学病院の検査結果がでた。陰性だった。
ほっとしたが、さらに悪いことを予想してしまう。病院を変えた、そこの先生は話を良く聞いてくれて、応対がよかった。抑うつ状態との診断を受けた。テトラミドを処方される。

うつ状態と鬱病は何が違うのか心配になる。何が不安なのかも不明の状態。

1995から
1996年頃

会社の仕事が多くなってきた。過剰に感じる。
残業が100時間を越える。肉体的も限界になってきた。昇格し、プレッシャーに襲われる。
家庭内もボロボロの状態になる。

離婚の話が浮上してくる。青天の霹靂である。

この病気は何なのだろう?
いったい自分が何をしたというのだ。

1997年

職場で発狂してしまう。自分の席の主任用ガラス板を叩き割った。

部長が飛んできて、「明日から有給休暇でいいから休むように」と命令される。

何もかもが嫌だー
という強迫観念に襲われる

1998年頃

東京に精神病院に入院する。開放病棟で比較的居心地が良い。ずっと、ここにいたいと思った。病名は「鬱病」であった。
アモキサン
レボトミン
アナフラニール
レキソタン
ガスモチン
リーマス

薬があまり効果をなさず。
気分は悪い。
鬱病という認識がない。
買い物依存症になる、
最高の気分だった。欝は完全に消えたと喜んでいた。

2000年頃

入院中は調子がよく、鬱もほとんど姿を消した。主治医との相性もよく上記薬でほとんど完治したように見えた。
ところが、完治して元気が良いのではなく躁病になって具合がよくなっていることに主治医も気がつかなかった。

買い物依存症に走りまくる
何でじぶんだけ辛い目にあんだと OD したりリスかをしたりする

2001年頃

復職失敗
職場で寝てばかりいる。上司に「主任のくせして居眠りとは何か!」と怒鳴られる。

ああ、また休める。とほっとした

2001年半ば 躁転から鬱に戻る。眠気がとれない。 鬱を悪化させた
2002年

休職を申し出た。病欠ではないので主任という肩書きは消えて人事部付けになる。
復帰しても、復帰場所も何も不明。
妻と協議離婚ショックだった、妻には未練がないようだった。何の愛情もなかった。お互いに

人間自分のことしか考えていないのさ
気分はほっとした
あんな会社に勤めるべきではない

2003年

主治医と職場の会議を病院で行う。
当時の上司は何がなんでも復職反対の姿勢。
主治医は「会社のことはわからないので復職の判断は会社にて・・・」と逃げられた。

ここで初めて躁鬱病と判明する。
とにかく長かった

2004年 依願退職  
2005年

入ると同時にセカンドオピニオンの大学病院で双極性感情障害(躁鬱病)と診断される。
テンションが妙に高かったりすぐに激怒したり、周囲もきにしていた。
刑事事件に巻き込まれる。過剰防衛で措置入院となる。半年間拘束される。
閉鎖病棟を一歩も出られなかったのはきつかった。

気がおかしくなりそうだった
2005年
現在に至る

こうして第一弾は終結した。
今もなお、2週間に1度通院している。
経過は堅調である、
寛解、完治ということで措置入院が終わった。
通院治療に切り替わる。完治・寛解ということだが調子はさほどよくない。
躁と鬱の波が交互にでる。

寛解といわれる

完全な躁

【所感】

 プロの精神科医でも誤診をする。患者側も認識を持って病気と対面することが必要である。
 そのためには、評判の良い医師にかかることが大切である。私の場合リタリン( 2.2.0 )も処方された。
 躁病の患者にリタリンはないだろう。