矢車草様の闘病記


出来事 身体面 身体面 振り返ってみて
1962 未熟児 仮死状態で誕生
一人っ子
身体が弱く病弱だった 母が私に掛かりきりになるため、
父が私のことを憎むようになった
   
父は母に対して母性愛を求めていた
父は愛情を受けて育っていないらしい
1963? 最初の記憶が「禁じられた遊び」を聞いて、哀しくなり涙したことだった 感受性が非常に強い子供だった
無意識に“良い子”を演じ始めた
物心ついた時には、既に「生き辛さ」を感じていた
父の記憶が、現在も欠落している
母に負担をかけないため、“良い子”を演じ始めたように思う
1966 幼稚園入園 友達のいない子供だった 人と一緒にいることが苦痛だった
1968 小学校入学 小学5年生まで友達ができなかった          〃
我が家は、“特別”らしいことに気付いた
1972 10歳頃、母の言葉をきっかけに心を閉ざした 「あの人(父)はあんな状態だから、アンタが大人になりなさい」と母から言われ、自分の感情を捨てた 感情を捨て、“良い子”を演じ続けた
幼いながら、自分という人間はいないと感じた
その日から、私は“機械”になった
1974 中学校入学 クラブに熱中していた 非常に疲れるが、クラブ活動ができるまでになった クラブ活動に熱中して、楽しかった 初めて、楽しいことがあると感じた
1977 高等学校入学
クラブ活動のために、周囲の
反対を押し切って入学した
クラブ活動で、イジメに遭った
自分の身体を傷付けたい思いに、とらわれた
常に胸や腹部に“重い石”が、乗っているように感じて病院に行くが、当然身体的には問題
無し
クラブ活動をしたいがために入学したのに、イジメに遭い毎日辛かった
耐えられなくなり、途中で退部する
リーダー格の人が、気に入らないと追い出される、私で3人目だった
顧問教師のフォローも無く、人間不信に
なった
消えてしまいたいと考えるようになった
反対を押し切って入学した学校で、イジメに遭って
いることは、家族には言えなかった
顧問教師は、イジメを感じていたようだが何もして
もらえず、誰も信用できないと感じた
1980 美術短大入学(デザイン科) 実習があり、ハードな毎日
だったが、充実していた
友人にも恵まれ、一番楽しい時期だった 絵が好きだったこともあるが、正直言うと、進学率が低い学校だったので、イジメをした人たちを、見返したい気持ちもあった
1982 就職
職種の関係で、ハードな毎日
だった
毎日最終バスまで残業
身体を壊して3年ほどで退職
した
拘束時間の長い仕事だったが、人間関係は良かった その後、職場の先輩と付き合って、結婚することに
なった
恋愛感情はあったが、とにかく家を出たい一心で、
結婚を決めたようなものだった
1985 結婚 田舎なので家政婦状態だった 7人家族で、三世帯同居
田舎生活に馴染めず、ストレスのため過食嘔吐になった
妊娠が判明したので、過食嘔吐はしなくなったが、
ストレスが無くなったわけでは無く、深刻な事態に
なっていった
1986 出産
先天性奇形児だった
田舎生活に馴染めず育児も
重なり、常に疲労感を感じた
子供のことで精神的にかなり強くなった
反面、元夫が幼稚に見え始めた
元夫が仕事で多忙なため、会話ができな
かった(喧嘩もできない状態)
専業主婦だったが、家事一切と育児に追われ、身体が蝕まれていった
子供が2歳の時に既に身体に異変を感じていたが、実家の母に預けられそうな、2歳半になるまで放置
していた
1988 癌に罹患(?期) 手術を受け約40日間入院 命の尊さ、はかなさを実感する、同時に
明日は我が身と覚悟する
この体験により、消えることだけは思い
とどまるようになった
私の病気をきっかけに、夫婦間や婚家と実家の関係が、ギクシャクしていった
1988 退院後の初受診の電車の中でパニック発作が起きた
その後数回繰り返す
初回は貧血からきたと思うが、予期不安から数回起こるようになった 「大丈夫、大丈夫」と自己暗示をかけた
数回で治まったようだ
一旦治まったので放置していた
(それがその後に悪影響を及ぼす)
主治医にも話していなかった
(外科医だから無駄だと思うが
1989 離婚
病気をきっかけに、互いの視点の違いを認識
退院後、実家にて養生 子供のため、生き残る手段として、私の方
から離婚を申し出る
元夫が少しでも庇ってくれたら、離婚するつもりは
無かった (実家を出たくて、結婚したのだから)
1989 就職
収入を得るため、就職活動に
奔走
なかなか仕事が見つからず、
体力が無いため、近場で妥協
した アットホームな雰囲気
が救いだった
最初の頃は、相当体力面で
キツかった
病気を隠して入社したため、精神面でも
キツかった
その後、アットホームな職場だったので、
一部の人にカミングアウトした
好景気で、先の仕事を心配することも無く、仕事が
楽しかった
アットホームな雰囲気は幸いしたが、賃金の男女
格差が相当あり、その後の生活に影響を及ぼすこと
になる
1992 仕事に対して、適性が無いことを実感した 徐々に疲れを感じるように
なった
上司から、仕事のスピードが遅いことを指摘
され、過剰に意識した
強迫性障害など、身体症状が表れる
2001 給与形態が、実力主義に変
わった
社内の雰囲気も、徐々に変わり始める
仕事ができずに、焦りを感じる 異常に、プレッシャーを感じた
特定の人から、冷たい態度をとられるようになった
毎日が怖くて、仕方が無かった
だんだん会社も、怖くなってきた
私の場合、サポートする人の給与を分けてもらう形になり、負担を感じ始めた
冷たい態度をとられたのは、その方と仕事のできない私と、あまり給与に差がなかったからだと思う
2001 先輩から、大ダメージを受けるような発言をじかに聞いた パニック障害が起きた 内外共に、私の評価が相当低いことを、
ハッキリ言われた
その後の2週間は、呆けたような生活を
送った
年末年始休暇の前だったので、どうしようもなく、好きなPCにも触れず、パズルゲームで遊んでいた
家族には、やはり言えなかった
2002.10 心療内科受診を受ける(隔週)
初めは、仕事がうつ源だと思っ
ていたので、数ヶ月は抗うつ剤
も処方されていなかった
毎日の疲労感が酷いが、母子家庭で働き手は私だけのため、家族に言えずに必死の思いで出勤した 治療を受けながらも、改善はみられない
プレッシャーによるミスの多発、離人感、
感情が無くなり、無気力で何も楽しいと
思えなくなった
自分が酷い状況にあることが自覚できずに、軽症にみられていたようだ
カルテに、抑うつ症状と書かれていた
2002.4 主治医が異動し、女性医師に
なる
劇的な変化はみられない 女性医師のため話しやすかった 話すうちに問題点が見えてきた
2002 自分が辛い最中なのに、何か人を癒せる仕事がしたいと、
思い始める
会社で冷たい態度をとられるのは、その人に病んだ部分があるからで、それが無く
なれば受入れてもらえると思った
今から思えば、夢を感じ出した瞬間だった
今の仕事には適性が無い、しかし何かの形で人を
癒したいという、欲求が生まれた
2003 少し症状が落ち着いてきたので、アサーティブトレーニング
(自己主張訓練)を始める
(時間は30分)
トレーニングの意義から始まり、医師とのロールプレイングに
うつった
机上の学問かと思ったが、徐々に実生活でも使えるようになった 症状の悪化から最終段階で頓挫したが、今になってみると有効なトレーニングだった
2004。5 父の言葉によるDVが、本当の
うつ源と発覚し、その後迅速に
医師が対処
週に1度の受診となり、抗うつ剤も増薬された
疲労感が強い
病状の悪化と、月経困難症の
ため、腹痛により食事すること
が困難になった
これが原因だったのかと、納得した 自覚したことにより、封印した記憶が戻ってきて
とても辛かった
まるで、パンドラの箱を開けたようだった
2004。6 仕事がひと段落した時点で、
2週間ほど欠勤して、治療に
専念したい旨を上司に願い出る
主治医と相談の結果、1ヶ月の休職を言い渡される
1ヶ月のうち、半月ぐらいは腹痛により動けなくなる 出勤しなくていいという安心感は得られたが、うつ源との同居のため、2階に引きこ
もる
入院して発見されたのだが子宮筋腫があり、それが
うつの悪化により、身体的症状を重くしていたようだ
2004。7 1ヶ月で快復できるはずも無く、休職を延長する
急遽、カウンセリングを始める
暑くなり、身体が衰弱してきた 傾聴型のカウンセラーだったので、自分で
答えを導き出す手法だった
自分で封印を解いてしまっていたので辛くは無かった
2004.8 約40日間の入院 入院時前半は、体力の衰弱
後半には、子宮筋腫治療によるホルモン注射により、かなりの出血があった
低血圧・貧血になりフラフラに
なる
「自分を守ること」に徹したトレーニングを
受ける
後半、母に甘えたかった気持ちを出す
ため、厳しいトレーニングを受ける
退院時には、その気持ちを伝える機会が
設定され、全てを母に訴えた
膿が出るように、様々な恐怖症が出たが、得難い体験をした
入院が絵を描く、きっかけとなった
体力の衰弱が激しく、うつ源との隔離のためにも、
入院を勧められる
自分でも快復のきっかけを掴みたく、入院を決意する
入院していなければ、ACの克服はもっと困難だったと思う
入院用品の中に、色鉛筆とスケッチブックを入れた
のが、私の人生を変えた
うつ病を患っていない方でも、苦労された方がたくさんおられ、その方たちを絵が癒してくれることを知った
2004.9 心療内科受診 隔週
カウンセリング 週1
退院後も、低血圧・貧血が酷い 体重、5kg減少 自分を守るため、2階に引きこもる
身体的なこともあり、半昼夜逆転生活に
なる
できれば、ずっと絵を描くように指導を受け
ていて、たくさんの絵を描いた
無意識に時間帯をずらして生活する、自己防衛方法だった
絵を描いて自分の悲しかった気持ちを絵にぶつけて、毎日泣きながら描いたが、それが後々快復を早める
ことになる
2004.11 3週間近く、寝たきりとなる とにかく動けない
ほとんど眠り続ける
退院後からこの頃まで、気持ちが安定
せず、時々“子供返り”をしていた
この3週間が、非常に大切な期間だったように思う
2004.12 買ってきてくれた花を見て、描きたいという欲求から、起きられるようになった 疲れているのだが、描きたい
欲求の方が勝った
萎れてきたので、捨てられそうになった
花に、自分を重ねて夢中で描いていた
カウンセラーから「“命”に敏感ですね」と言われる
癌の体験から、そう感じるのかもしれない
2005.1 「生きやすさ」を、感じるように
なった
生まれ変わったように感じた
身体的にはフラフラだが、何かが、楽になったように感じた
わずかずつだが、動けるようになってきた
自分の中のチャイルドと、大人の自分が
入替わったように感じた
両方の人格が融合し、チャイルドが前面に出て、大人の自分がサポート役に回って
いるようだ
絵に勢いが増し、描きながら自己対話するようになり、最後は無心の境地になる
積極的な夢も良く見るようになった
日々新しい自分を発見する
○子供の面が出ているから、自由奔放で、積極的に
 なったこと
○実際には、何処かへ逃げ出すことはできないが、
 心はどこまでも自由だと感じること
○人を信じ、愛せるようになったこと
○人を赦せるようになったこと
○絵を描いて無心になるため、眠る頃には1日の
 リセットができるようになったこと
カウンセラーさんからは、「絵を描く作業が病気の
快復に非常に役立っており、その影響で深層心理
にも良い影響を与えているようだ」と言われた
2005.2 HP開設 かなり疲れる作業だったが、
やらずにはおられなかった
悩んでいる方や、異動される主治医に見て頂きたく、勢いで作成した 誰かの役に立てればという思いと、元主治医と何処かで繋がっていたかった気持ちがあった
2005.3 2年間お世話になった主治医が、異動された 一時期かなり落ち込んで、身体的にも辛かった 一番辛い時に担当して頂いたので、異動
されるのが辛かったが、最後には笑顔で
お別れできた
最後に「あなたの勇気には我々医師も勇気付けられました」と、言葉をかけて頂いた
2005.4 新しい男性主治医になる 身体的にはフラフラだが、通院時に寄り道できるようにもなった 少し男性恐怖症気味だったので、若干不安だったが大丈夫だった  女性特有の問題も話せる
絵も新しい手法を試みた
上記の元主治医が、「あなたには一番相性が合うはずよ」と言われていたが、その通りだった
気持ちも、客観的に、かつ積極的になってきている
2005.5 ある事故から、かなり影響を
受ける
身体的にも辛かった 事故から、自分の幼い時の状況と、重ねてしまっていた 落ち込んだ状況から、乗り越えられた時、何か行動
せずにはおられなかった
HPのリニューアルと、出版社へ応募をする
1966 心から分かり合える友人が
できた
真実を率直に言ってもらえる、貴重な友人がたくさんできた
絵も心象風景を描いたり、素材をモチーフにしながらも、自分の心情を出していった
今まで、ずっとひとりで抱え込んでいたが、相談できる人ができて、より正しい判断ができるようになった
絵を描くことが、本当に楽しくなった
この頃には心の中で、土台となるものができていた
トラブルがあっても2、3日で、一応の結論は出せる
ようになった
2005.6 HPをリニューアル 初めての挑戦で難しく、相当
疲れる作業だった
上記の経緯から、もっと心を癒せるものを
作ってみたかったので、オリジナルHPを
作成してみた
夢のひとつは叶った
もっと大きな、本の出版という夢もあるが、ゆっくりと
育んでいきたい
2005.7 自分が大きくかわろうとしているのを感じる 体力的には、心の作業で消費
するため、かなり消耗している
絵も心も、どんどん変わってきているのを
感じる
今後も、変化し続けるだろう
絵と心の相互作用で、カウンセラーも驚かれている
深層心理にまで、何かが影響しているようだ

私の場合は、家庭環境からくるうつ病だったので、投薬と休養だけでは快復できませんでした。
私に、本当のうつ源は何なのか自覚が無かったために、治療が長引いてしまいました。
ドクターとの何気ない会話が発端で、父の言葉のDVが原因と判明してから、ドクターの迅速な対応と、入院でトレーニングを受けたことが幸いしました。

また、絵を描くことにより、治療と同じ効果が現れ、快復を早めたようです。今後も引き続き、描いていきたいと思います。
ふと思いついた夢がひとつ実現し、今後も出来る範囲で夢を追い続けたいと思います。
何よりも、YASU管理人様はじめ、こちらの皆様に応援して頂いたことが、何よりの処方でした。有難うございました。

まだ、家族との関係や仕事の問題など、現実問題として解決すべきことはたくさんありますが、大きく変わろうとしている今の時期を大切に、治療に専念したいと思います。