『聖年』における希望とは?

2025年10月19日

1. 希望なしには生きられない

 「希望とは、単なる幸せへの希望ではありません。また喜びを希望することではありません。今、希望できること自体が幸せであり喜びなのです」(『キリスト者の希望』フランシスコ教皇著,140頁)。真の希望とは、人間的に希望が絶えてしまった時になお残る神の約束への信頼です。信仰が希望を生み、希望が愛を生みます。信仰、希望、愛は神から人の心に注がれる恵みの徳なのです。人間的な希望は常に裏切られます。だから現代人は「希望の数だけ絶望は増え」「出会いの数だけ別れは増える」体験を重ね、信じること、希望すること、愛することを恐れています。幸せになるために多くのものを手に入れようとしますが、自己愛を優先する者は大切な何かを失います。それは自分を犠牲にして誰かのために役立つという仕える心です。それを失った人生は敗北者です。

 愛なしで生きられる人はいません。誰もが愛を求めていますが、現代人にとって愛は「報酬」だと思われています。「自分が強くて、魅力的で、美しくなければ、誰にも気にかけてもらえないと感じているのです。(...)心の空白を埋めるために常に注目され、肯定してもらうこと必要であるかのようです。(...)人からの関心を集めたいと思いながら、ほかの人を無償で愛すること恐れて」(『キリスト者の希望』フランシスコ教皇著,149,150頁)いるのです。親から無条件で愛された経験がないせいかもしれません。親も知らずに条件を付けていたかもしれません。無償で与えられ、それを受け取るという体験だけが人を幸せにしてくれます。神がまず初めに私たちを愛してくださいました。私たちが善人だからではなく、罪人だからです。これは、もう実現しています。愛する心さえ持てば、誰でも分かります。そこに人間の希望があります。  

 だから、誰かのために生きる人は希望で満たされます。自分を優先する人は、神に対しても自分を優先させます。それは神に条件を付けることになります。自分の考えや望みに執着してはいけません。結果的に心から神を追い出すことになり、同時に希望を追い出すのです。条件を付けずに、神に希望して恐れに打ち勝つことが肝心です。自分の計画を神に押し付けるのではなく、私が神の計画に加わるのです。いのち、健康、愛、幸福を願いますが、神は死者を復活させ、病気でも平安を与え、孤独でも安らぎ、悲しみの中でも安息を与える方です。私たちは神に愛されている「神の子」なのです。放蕩息子を抱きかかえる父親のように、私たちを永遠のいのちへと引き寄せてくださいます。

2. 現実の中に希望がある

 「どうせ私なんか」と考える人が増えています。他人と比べることが原因です。「自分にないもの」だけが強調され、「自分は何も持っていない、自分には価値がない」と感じます。また「社会で成功できない、競争に勝でない」という不安が「恐れ」を生み出します。恐れに心が支配されると、心は自由を失います。すべて幻想、自分が創り出した影にすぎません。こうして、自分の中にある尊いものを見失っているのです。誰もが神に望まれ、神に愛されて生まれてきました。存在するだけで尊い命です。神を信じるとは、自分を信じることと切り離せません。自分を否定すれば、神を否定することになります。

 「恐れ」は、気のせいです。勘違いです。この世は神の愛に満ちています。それが見えないのは、人間が欲に満ちているからです。欲が欲を呼び、他人の欲と争っているからです。野の花に心惹かれる沈む夕日にハッと息をのみ感動する、山道を散歩して心が癒される、雄大な自然の中に立ち悩みが小さく見える、など誰もが経験しています。私たちは「自然の恵み」に生かされ、人々の「労働の実り」で生きています。誰かと競争して生きているわけではありません。現代人は結果を気にしすぎて、「結果」に縛られています。会社は人を結果で評価するからです。しかし、人として大切なことは結果ではなく、真心、誠実さを持って人々のために一所懸命に働くことです。

 努力すれば「結果」はついて来ると言われます。だから心配するな、恐れるなという意味ですが、必ずしも成功するとは限りません。真実は、努力すれば「魂が清められ、成長する」ということです。世間から評価されなくても、神が見ています。それで十分です。こうして、結果主義から心は解放されます。すべきことをしたなら、後は神の手に委ねましょう。人の評価は「どうでもいい」のです。失敗しても、誤解されても、さらには死んでもいいのです。

 自分を否定することは、現実を否定すること、神を否定することと同じです。神は現実の中にしかいません。まず現実を受け入れましょう。それは現実が正しいということではありません。現実と向き合うという意味です。「争い」があるところに「平和」を、「憎しみ」があるところに「思いやり」を、「奪う」人には「与える」心で向き合います。現実を「当たり前」と勘違いせず、「神の恵み」として「感謝」で応えるのです。信仰は現実の中に神を発見するです。希望も理想の中ではなく、現実の中にあります。