2025年11月30日 待降節第一主日(キリスト教講座番外編)
聖母マリアの待降節は「お告げ」から始まり「ご降誕」で終りを迎えます。私たちは、典礼を通して聖母の待降節を辿ります。しかし、救い主のご降誕は2000前に実現しています。もう待つ必要がありません。私たちが本当の「待つべき」ことは何でしょうか? 第一主日の福音書が答えてくれます。「人の子が来るのは、ノアの時と同じである」(マタイ24.37)。主イエスは再び来られます。主の再臨です。その時、悪は滅ぼされ、罪は裁かれ、愛と正義が完成する「キリストの王国」が始まります。
世の終わりに、ノアの洪水の時と同じことが起こります。「人々は食べたり飲んだり、娶ったり、嫁いだり」して好きなように生きて、全員が滅ぼされました。最後の時に備えなかったからです。待降節は、私たちが最後の時に備えるように、準備するように促しています。「だから、目を覚ましていなさい」。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る」と警告しています。私たちの人生のすべてが終りの時に向けての待降節になるのです。
「位置について、ヨーイ、ドン」で走り始めます。その時、必ずゴールを目指して走ります。当てもなく走ったりしません。パウロは「空を打つことなく、走るべき道のりを走り通した」と述べています。ゴールを見ずに走る人は、空振りして、行き止まりの道を走り、迷子になります。救いの歴史から見れば、その人は救われないということです。待降節で最初の見るべきはゴールです。人生のゴールは死であり、人類のゴールは主の再臨です。個人の救いは死で確定して、人類の救いは世の終わりの公審判で確定します。それが目的地、ゴールです。
では「ゴール」を見て走るとは、具体的に何をすることでしょうか?先述したようにゴールはキリストの王国です。この世の国と違い、愛が支配する国です。愛は命令しません。互いに喜んで仕え合うのです。その国の民は、イエスの生き方をたどっ人々なのです。つまり「ゴール」はイエス・キリスト自身です。キリストのように生きて、キリストのように働き、キリストのように愛する事です。日常生活、社会生活、仕事を通して『キリストに似た者になる、そしてキリスト自身になる』ことを目指すことです。ゴールを見たら、その時が真の「スタート」の時です。あなたの「よーい」はいいですか?