『仕える』人生は美しい

2025年12月14日 待降節第三主日(キリスト教講座番外編)

 「主イエスに従う人は、神に喜ばれ、人々に信頼される」(聖パウロ)。初代教会の人々は主イエスに倣い、互いに仕え合って暮らしていました。異邦人はそれを見て美しいと感じて、称賛しました。現代人は「仕える生き方」とは真逆の価値観で生きています。いわゆる個人主義です。自分の利益優先、欲望優先、権利優先です。仕えることは敗北を意味します。フランシスコ前教皇は、次のように記しました。「(現代は)個人的な利害に閉じこもらせる時代、権力に取りつかれている時代、多くの人々が見捨てられている時代」(使徒的勧告『信頼の道』52番参照)と指摘しました。

 人間は誰かのために生きるとき、その人の人生は輝きます。人生を捧げることがいかいに美しいかを教えてくれる人が必要です。他者を思いやり、仕えることの美しさを教えてくれる模範が必要です。若者が仕えることに憧れる時代を創りましょう。ある方の生き方を紹介します。世間からは称賛されることなく、ひっそりと人生を終えた家政婦さんです。世話をした一家の子供の心にしっかりと刻まれていました。誰よりも早く起きて雑巾がけをして家を清め、食事の支度をして、昼間は洗濯や掃除をしながら子供の面倒も見て、皆が寝静まってから床に就きました。一日中何かの仕事をして、無駄に過ごす時間はありませんでした。子供は彼女に懐いて、まるでお友達みたいでした。小麦や卵がケーキに変わるのを魔法みたいに感じました。質問したら何でも応えてくれる家の先生でした。それを見て「私も料理をしたい。アイロン当てをしたい。きれいに洗濯物を畳みたい」と憧れていました。何より、いつも喜んで楽しそうに働く姿をみて、「私も家族のために働きたい」と感じていました。子供は素直に「仕える生き方」を美しいと感じていたのです。

 これは何十年も前の話ですが、今の子供たちはこんな姿を見ているのでしょうか? 現代社会には「仕えたくない」という叫びが溢れています。これは悪魔が最初に神に放った言葉です。自由になりたくて叫んだのですが、神の恵みを失い、欲望に縛られて不自由になってしまうのです。こんな時代だからこそ、待降節の典礼は意味を持ちます。マリア様も、ヨゼフ様も、羊飼いも、そして誰よりも主イエスご自身が「仕える」ことの美しさを表しています。「真、善、美」である神は唯一です。美しい人生は、真実を生きる、善を求める人生でもあります。反対に欲に生きることは、見苦しい人生になります。仕えるために来られた幼子イエスに倣いましょう。