2026年2月18日
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、国家の大業は成し得られぬなり」(『南州翁遺訓』30)。西郷隆盛の有名な言葉です。逆に言えば、多くの人は私利私欲で動いているということになります。自分で動いているつもりで、人から動かされているのです。人を思い通りに動かそうとするとき、三つの方法があります。その一、力で支配する。その二、名誉、地位、お金など、人の欲を利用して動かす。その三、不安や恐れを抱かせて思い通りに誘導する。これらは悪魔の手口と一致します。
神と親しい関係にある時は、神に従うことが幸せでした。しかし原罪を犯して悪魔の支配下に降ってからは、神に従うことが不自由と感じ、欲に従うことが自由だと勘違いしました。その結果、悪魔に動かされているのです。心の奥にある良心の声に従い、その善のために命を懸ける人が、悪魔の誘惑に打ち勝ちます。そんな無私無欲な人こそが本当に信頼できる人であり、艱難を共にして神のために大業(神の業=オプス・デイ)を成すことが出来るのです。
イエスは「剣で支配する者は、剣で滅びる」と教えています。力で人を支配する人は、いずれ力で人から支配されるのです。欲で動く人は、欲に縛られて、いつまで経っても満足や平安を得られません。恐れで動く人は、「手放すこと」「失うこと」を恐れているのです。それを守ろうとして必死になりますが、欲に動かされている人と同じで、いつまでも心に平和がありません。人やモノから動かされいるからです。自分から望んで動いているつもりでも、自分の外に原因がある限り、自分の思い通りにはなりません。だから心に平安は来ません。
人を動かす、もう一つの方法があります。それは神の方法でもあります。それは「愛で動かす」というやり方です。相手が自分から動くのを信じて待つのです。その間、愛を与え続けます。ギブ&テイクではありません。無償で与え続けるのです。モノではなく心を与えるのです。遠回りで不確実なやり方に見えます。しかし人を変えるのは、これしかありません。神は私たちが回心するために、信じて、待ちます。与え続けて待ちます。自らが動くことを「愛する」と言います。欲で動くときも、本人は自分から動きます。だから自己の責任があります。自分から動きますが、欲は自分の外に目的があります。それを所有することが目的です。それに反して、愛の目的は外ではなく、内的な心です。愛は所有することではなく、自分を与えることです。愛する相手に与えるのです。悪魔に勝つには、神を信じ、愛ゆえに神に従う行動が不可欠です。