誘惑は救いの道

2026/02/22/ 四旬節第一主日(A年)マタイ4.1-11

 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、『霊』に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉によって生きる。」
(続く二つの誘惑に対しても、聖書の言葉で誘惑を退けました)
「あなたの神である主を試してはならない。」
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」

 若いモデルがパリコレのスーパーモデルに抜擢され、デビューが近づき心躍らせていました。そんな矢先、医者からガンを告知されました。治療に専念し、抗がん剤の副作用でモデルの仕事も辞めざるを得なくなりました。その後の彼女は、どうなったのでしょうか? 彼女の言葉です。「今では、神に感謝しています。もし、あのままデビューしていたら、私は美しい人、偉い人、立派な人間だと勘違いして、きっと人生を過っていたと思います。ガンになったおかげで人生を見つめ直すことができました。」

 聖アウグスティヌスは「誘惑(試練)があるから戦うことができる。戦うから功徳を積める。功徳があるから救われる」と説明しています。もし誘惑や試練がなかったら、生ぬるい人間のままで、神がお望みの人間へと成長できないでしょう。誘惑や苦しみ自体に価値はありませんが、それを通して成長するとき、価値あるものに変えられるのです。そもそも十字架は罰を与える道具でしたが、イエスが十字架を受け入れた時から、それは罰ではなく愛のもう一つの形になりました。罰が恵みに変わりました。「過ぎ越し」たのです。

 ヘブライの民をエジプトの奴隷から解放したのは神の力でした。しかし約束の土地に入るためには長い旅を必要としました。その間に様々な試練がありました。それを通して自己愛に傾いた心が清められ、強められ、約束を受けるに相応しい姿に変えられました。私たちは天国という永遠の住処に向かって旅をしています。楽な道は行き止まりです。幸せへの道は険しい道です。本当の幸せは、清い心、美しい心、正しい心でしか味わえないからです。

 試練(誘惑)や苦しみが功徳に変わる秘訣は何でしょうか? イエスの両側に磔にされた二人の盗賊も十字架の苦しみを受けましたが、それは罰であって、功徳や恵みにはなりませんでした。しかしイエスの十字架は、救いの恵みをもたらしました。それは、イエスが十字架の苦しみを愛したからです。「十字架から降りてみよ」と誘惑を受けましたが、自ら十字架に残りました。これが秘訣です。試練や苦しみから逃げるのではなく、イエスに倣って「受け止める」ことです。それを望むなら、イエスの恵みによって苦しみを担うことが出来ます。イエスが共に担うので、苦しみの十字架は重荷ではなく恵みに変わります。

なぜ誘惑があるのか?

 ここで、いきなり意地悪クイズです。「殉教するためには何が必要ですか?」常識的な模範解答なら「信仰です」が、正解は・・・「迫害です」いくら信仰があっても迫害がなければ殉教できません。続いて第二問です。「天国に入るためには何が必要ですか?」模範解答は「神の恵み」でしょうが、そこは意地悪クイズです。正解は「誘惑」です。誘惑がなければ戦うことが出来ません。戦いがなければ勝利もありません。勝利がなければ天国に入ることが出来ません。だから、誘惑は救いのために必要なのです。

 ちょっと意外な感じがしますね。誘惑と同じく、人間の弱さも必要です。小さなことで負ける自分を知ることで、自分の弱さを認め、神の助けや恵みの必要性を自覚できます。こうして、もっと大きな試練が来たら神に頼ろうとする姿勢が育ちます。このように、誘惑も人間の弱さも、それ自体は決してよいものではありませんが、神の計画によって救いの道にきちんと位置づけられています。だから、必要以上に自分の弱さを恐れることはありません。また、誘惑があるからといって心配することもありません。

 アダムとエバが誘惑に負けたのは高慢からでした。神なしで幸せになれるという思いでした。だから、誘惑を通して謙遜になればいいのです。恐れることはありません。イエスが戦い方を示されました。それは、パンのためではなく神のことばによって生きることでした。天国は戦いの結果、与えられるものです。誘惑を試練と時として受け入れて、戦うことです。年配のご婦人の事例を見ながら考えてみましょう。

 私は長年、神様のために一生懸命働いてきたのに、どうして病気になったのですか? いい加減な信仰のAさんは元気でピンピンしているのに… 神様は不公平です! 神父様、どう思いますか? 私は、もうミサにも行きたくない、教会の仕事も一切引き受けません。いいでしょう?

 この婦人は教会に何を求めていたのでしょうか? 神様に何を求めているのでしょうか? イエスの教えは何でしたか? 洗礼式の時、「あなたは教会に何を求めますか?」と質問されます。その時、「信仰を求めます」と答えます。また、イエスは食べ物について思い煩う使徒に向かって「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。神の義を求めよ」と教え諭しています。あなたにもイエスの同じ言葉が聞こえてきませんか? 教会のために働いたから病気にならないはずだ。苦しいことに合わないように守られるはずだ。人々から尊敬され感謝されるべきだ。そんなふうに考えていたのではないでしょうか?

 イエスも試み(誘惑、試練)を荒野で受けました。その時「父である神よ。どうして私を苦しめるのですか?」と文句を言ったのでしょうか? その逆です。「人はパンだけに生きるのではない。神の言葉で生きる」と空腹という苦しみを神の望みとして受け入れました。また「神である主を試してはならない」と、自分の思い通りになることを主に強要してはならない、どんな状況でも神には従うべきことを説きました。病気を受け入れられないのは、パンのためだけに生きているからではないですか? 神は私の病気を治すべきだと思うのは、主を試すことではないですか?

 「神様のために一生懸命に働いてきた」から「神の子」として当然のことを神に要求していると思っていませんか? 荒野でイエスは悪魔から誘惑(試練、試み)を受けましたが、その時の言葉が「もし、おまえが神の子なら」でした。アダムとエバは「神のようになりたい」と思って、善悪の知識の木の実に手を出しました。悪魔は元天使でしたが「神のようになりたい」と考えて神に従わず、神から離れて悪魔になりました。自ら「神の子」になろうとする人は、悪魔の誘惑に騙されて神の子の恵みを失います。反対にイエスは本性から「神の子」でしたが、それに固執せず自らへりくだり「人の子」として来られました。罪が無いのに十字架の苦しみを自ら引き受けました。イエスに倣う人は神から愛され、神の後継者として高められ、「神の子」の身分を受けるのです。

 使徒ヤコブの手紙に答えがあります。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくのです。誘惑に遭うとき、誰も神に誘惑されている、と言ってはなりません。(…)むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれて、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望は孕んで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1.12~)。

気付かない誘惑

 日常会話で「誘惑」と言えば、異性に対して心が揺れることですが、キリスト教で言う「誘惑」とは、自分との戦いで現れる悪(罪)への傾きを指します。『主の祈り』では「悪への誘惑に負けないように助けてください」と願います。そもそも、人祖のアダムとエバが蛇(悪魔)の誘惑に騙されて「善悪の木の実」を食べてしまったことから、誘惑に負ける弱さが人間に入り込みました。一体どんな誘惑が、人間を悪へと誘うのでしょうか?

 試験勉強をしないといけないのに、机の引き出しの片付けや部屋の掃除をしたくなる、そんな事はないですか? 目覚まし時計が鳴っても、あと5分だけ寝ていたい、席をお年寄りに譲るべきだけど、疲れているから眠った振りをする、そんなこともあるでしょう。陰口はいけないと知りつつ、楽しいから言ってしまうことがあるかもしれません。これらを一言でまとめると「すべきことを、しない」「してはいけないことを、してしまう」これが誘惑ですね。

 これらは、知りつつ犯してしまう罪です。だから自覚しやすい誘惑です。頭で分かっても、行動に移すのが難しいのです。問題は「弱い心」にあります。これは、決心をして、失敗を繰り返しながら戦うしかありません。しかし、もっと難しい誘惑があります。それは…? 人間の欠点には二つあります。「意志が弱ったこと、知恵が暗んだこと」です。そして、戦いが難しいのが、後者の知恵の誘惑です。これは、自分で悪いことを悪いと思わないことです。正しいと勘違いすることです。悪いと思わないから、戦うことが出来ません。

 たとえば、「ひどい事をされたから、ゆるさない。仕返しをしてやる!」と心に決めます。本人は、これを悪いと思いません。当然のこと、正しいこと、まるで権利があるかのように考えています。しかし、ゆるさない心は、神を追い出し平和を奪います。いくら仕返ししても満足しません。神の法則に反しているからです。これこそが、最も巧妙な悪魔的誘惑です。「神に従いたくない」「自分が神のようになる(人を裁く)」、これこそが隠された最大の誘惑です。これは、祈りと犠牲によらなければ克服出来ません。