司祭になって間もない頃、あるご婦人が相談で教会を訪ねてきました。「悪魔が私を殺そうとしています。神父様、助けてください」。事情を尋ねると、夢に悪魔が現れ「お前を見張っている。機会を見て殺す」と脅されて目が覚め、妙にリアルで怖くなり、悪魔祓いをしてもらうために来たそうです。新司祭は途方にくれましたが、何とか按手をしながら自作の祈りを唱えました。「どうですか?」「全然、ダメです」と一蹴され、がっかりです。ご婦人は「では、十字架を持ってきてください」と頼むので、香部屋から大中小、三本の十字持ってきました。彼女は大きな十字架を抱きしめて、しばらく祈っていましたが、やがて涙を流しながら「イエス様が悪魔ら解放してくださいました」と礼を言って帰りました。
新司祭は思いました。私は一生懸命にご婦人を助けようとしけれど何も出来なかった。でも十字架の主イエスが彼女を救ってくれた。司祭の仕事は、自分自身が信徒を助けることではなく、人々を救い主イエスへと導くことであると気づきました。救うのは司祭でもなく、信徒の努力でもなく、主イエス自身なのです。この真理を忘れないようにしましょう。熱心な司祭、熱心な信者ほど陥りやすい誘惑です。救いは私たちの努力の結果ではなく、無償で差し出される神の慈しみ、憐れみなのです。それを受け取るために、イエスを主と信じて、さらに自分の人生に主イエスを招き入れることが必要です。
教会は「交わり」(コムニオ)と呼んでいます。ただ信じるだけではなく、行いによって主イエスと結ばれることです。信仰は愛に似ています。愛は心で生まれ、行いによって相手に伝わります。信仰も心で生まれ、行いによって相手、主イエスに伝わります。これが「交わり」です。ミサの後半部分を「交わりの儀」(コムニオ)と言います。「聖体拝領」と訳されていた言葉です。この訳は不十分です。本来は、主イエスと一体になるという意味です。結婚した男女が「もはや二人は一体である」と言われる言葉と同じです。
悪魔から解放されたご婦人のように、十字架のイエスと出会う体験が不可欠です。出会いの体験が出来る機会は、身近にあります。一つは、ゆるしの秘跡です。単に儀式的にゆるされるのではありません。時空を超えた存在であるイエスが、今、あなたの目の前で血を流して罪を清めてくださいます。もう一つは聖体です。お告げによって聖母マリアの体内に宿ったように、イエスを信じる人の体内に神であり人であるイエス自身が訪問してくださいます。これ以上の体験的な出会いはありません。