過越しと神のいつくしみ

2026年4月12日 神のいつくしみの主日

 復活した主は、使徒たちに現れて「手とわき腹とをお見せになった」その手には釘の後がはっきり残されていました。苦しみの印が、救いの印に変わりました。それは神の愛と栄光を表します。傷は不完全さを指しますが、復活したイエスの傷は不完全さではなく、救いの完成を示しています。無くてはならないものです。私たちにも無くてはならない印です。それは同時に愛の印でもあります。十字架は愛の試金石なのです。あなたの人生に十字架の印が刻まれていますか。ところが、現代人の多くは「個の視点」で人生を設計して生きています。損得、好き嫌いという価値観が優先しています。そのため「誰かのために生きる」という大切な視点が欠けているのです。十字架の愛とは、誰かのために自分を差し出すことです。現代の価値観と真逆です。そのため「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます」(聖ヨハネ・パウロ二世教皇メッセージ 2005年4月3日付)。

 復活した主は、ご自身の愛を私たちに与えてくださいます。それは、ゆるし、和解、希望に魂を開いてくれる愛です。この愛に動かされて祈りましょう。「主イエスよ、あなたに信頼して願います。わたしたちと全世界をあわれんでください」。日々の生活の中で、仕事の中で神のいつくしみに気付きましょう。そのためには、生きる視点を変える必要があります。「個の視点」ではなく「私たちの視点」で人生を再設計し直すことです。私たちは一人ではありません。孤独でもありません。復活した主イエスが私たちの人生に寄り添っています。先日のミサで朗読されたエマオの弟子のように、復活したイエスがあなたの人生に同伴しています。主イエスと私で「私たちの人生」です。さらに、イエスを通してすべての人と何かしらの家族的な関係を築きます。そして、社会に役立つために自分のタレントを活用しましょう。自分のためではありません。私たちは互いに仕え合うことで、社会の役割分担という責任を果たすのです。

 マリアに助けられながら、わたしたちは過越の喜びの真の意味を理解できます。「おとめが胎内にみごもった方は、わたしたちのために苦しみを受け死んだかたが、ほんとうに復活した、アレルヤ。」聖母は受難の時に主イエスの復活を信じた唯一の人間です。苦しみの中に希望の光を見ていました。子のために自分の命を捧げる母の愛がマリアを支えました。誰かのために生きる時、神のいつくしみを日々の生活の中に発見するでしょう。誰かのために生きる時、必然的に「誰かのために祈る」でしょう。