聖体、神の愛の物語

2026年6月7日 聖体の祭日

 「聖体」は、見えない神の愛が見える姿で示されたものです。神が人を愛していると言っても、見えないから現実味がありません。だから、人間にも分かるように私たちと同じ血肉をもって示されました。人間がそこから真実の愛を学ぶためです。ところが、神を信じない現代社会では、人間の愛がおかしくなっています。結婚を決めるために、まず同棲して相性を確かめることが普通になっています。「お試し」しなければ分からないというのです。これに対して「神の掟に反する」と反対しても不寛容な人と嫌われるだけで、議論にもなりません。信仰がない人と同じ土俵で伝えるには、どうすればよいでしょうか?

 相性を確かめるとは、自分中心に相手を見ることです。商品を買う時の態度です。だから相手にすごく失礼な態度です。個人主義から「愛」を見ると、必然的に自分中心の形になります。これは歪んだ愛で、「欲」といいます。真実の愛は、自分の善より相手の善を優先します。さらに、友のために命を捧げる態度が愛です。「お試し」とは相手を信じていない態度です。田中角栄は「部下を試したら、二度と戻って来ない」と喝破しています。「信じて任せてくれる上司に部下は付いて行く」のです。ましてや、結婚という人生の一大事を「試す」なんて、言語道断の振る舞いです。でも、現代の若者は、こんなことさえ分からなくなっています。自分に益をもたらすことだけに価値を見出すのです。 こんな状態から救うために、神は人間の血肉を摂り物質世界に来られました。哀れな人間を救いたいという神の愛です。「救い」は神の愛に満たされることです。苦しみが無くなることではありません。イエスは神の愛を取り戻すために、十字架で苦しみと死を捧げました。その結果、人間は神と和解して神の子になる身分を頂いたのです。これが「救い」の成就です。イエスは十字架上で「すべては成し遂げられた」と宣言しました。救いは実現したのです。また、生前に「私は世に勝った」と完了形で述べています。「救い」は天国を待つまでもなく、この世で実現しているのです。キリストは二度「救い」ます。一度目はこの世で、二度目はあの世です。

 マリアが聖霊によって神の御子を宿したとき、神の愛がこの世に来ました。マリアから血肉を受けて、神の愛は「人の子」としてこの世に生まれ、聖家族の中で神の愛は成長して、さらに救い主として活動して、神の愛を人々に与えました。最後に「友のために命を捧げる」最高の愛を人間に下さいました。この愛こそが救いです。イエスの地上での生活は、父である神の愛をすべて伝えました。それは子である神イエスの愛でもありました。「人の子」イエスは常に神の愛に満たされて日々を過ごしたから、地上で一番幸せな人です。聖母マリアも神の愛に満たされた人生を送ったから、イエスの次に幸せな人です。

 イエスもマリアも地上において既に救われていたのです。分かりやすい模範は殉教者です。拷問で命を奪われる苦しみを受けながら、心は愛で満たされていました。苦しみに勝ったから愛が満たされたのではありません。逆なのです。愛があったから苦しみに勝ったのです。神の愛に満たされることが「救い」です。多くの人は自分のことを優先しているので、神のことが後回しになります。それは神の愛を捨てる事です。それでは救われません。イエスは地上で日常生活をして、社会生活もしました。それらを通して神の愛を地上に宿らせました。いわば、地上の事柄を神の愛と結びつけました。この世に洗礼を授けたのです。

 洗礼を受けた人は「人の子」イエスの血を通して神の愛と結ばれました。これが「救い」の始まりです。この「交わり」を成長させるために「聖体」が残されました。イエスの体を通して三位一体の神とつながります。神の愛が私たちに惜しみなく与えられています。これが第一の救いです。「友であるイエスのために命を与える(苦しみを受け取る)人」は既に救われています。この信仰の業の実りが天国の救いです。愛が不十分な人は煉獄で清められてから入ります。天国では復活した聖なるイエスの体が私たちを迎えます。世の終わりには私たちの体も復活して救いは完了します。