2026年6月12日 イエスの聖心の祭日
見えない神の愛が、マリアの子、主イエスを通して見えるようになりました。見える神の愛は、何をしたのでしょうか?イエスは、まず罪人に近づき、寄り添ったのです。罪人とは、娼婦、異邦人、皮膚病で苦しむ人、障害を持った人、病気の人、牢屋に入っている人々です。「救い」とは苦しみから解放することですから、苦しみを消してくださることを期待しますが、実際は違いました。貧しい人と共にいて、話を聞き、手を差し伸べ、助け、慰め、励ましたのです。イザヤの書に預言されている通り、「盲人は見え、足の不自由な人は歩き、皮膚病の人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、貧しい人に福音が告げ知らされている」(マタイ11.5)。これらの出来事は、弱い人、貧しい人に対する神の愛のある種の「弱さ」を物語っています。放っておけないのです。(使徒的勧告『わたしはあなたを愛している』レオ14世教皇著n.17参照)
今もイエスの血の通った聖心は、弱い人、貧しい人に寄り添っています。私の知り合いで15年間「教誨師」をしている司祭がいます。最初は受刑者を前に恐れと緊張で震え、無難に「心温まるいい話」をしていたそうですが、ある日、一人の受刑者から言われました。「私たちにキリスト教を教えてくれませんか」と。彼らは本物の教え、神に飢えていたのです。公教要理の勉強が始まりました。「目をギラギラさせて、一言も逃すまいと、全身全霊で話を聞いているのは受刑者のみなさんである。彼らの右に出る者は誰もいない」と断言しています。本人は気付いていないけれど、神への渇きを与えたのはイエスの聖心でした。
現代は聖書の「バベルの塔」のように、神を必要としない社会です。自らの力で幸せをつかもうとしています。だから「貧しさ」を拒否します。軽蔑します。その心が神の愛を拒否しています。だから神の愛を体験できません。逆に現代社会から拒否された人々は、自分の「貧しさ」を誰よりも深く体験しています。だから神の愛が彼らに寄り添うのです。フィリピンの貧しい村で、学校を造るボランティアに参加した大学生は、「裸足で下着一枚で走りまわる子どもの幸せそうな笑顔が忘れられない。日本に帰り、疲れた顔で電車に乗る塾帰りの小学生を見て、全然幸せじゃないと感じる」と印象を語っていました。今もイエスの聖心は「貧しい人」に寄り添っています。「心の貧しい人は幸いである。天の国は、その人たちのものである」(マタイ5.3)。イエスは罪人にすぎない「貧しい」私たちのために血を流しました。「友のために命を捧げる」最大の愛を下さいました。み心は同時に心臓でもあります。血の通った愛、行動を伴う愛に「救う力」が宿るのです。