戸口民也
教皇フランシスコが回勅『ラウダート・シ』で述べていることを、簡単にまとめてみました。
副題「ともに暮らす家を大切に」にも示されているように、回勅は地球環境が危機に瀕していることを訴えていますが、それだけではありません。この危機をもたらしているのはわたしたち人間であり、地球環境の危機と社会環境の危機とは分かちがたく結びついている、と教皇は強調します。わたしたちの母なる大地、地球は、「わたしたち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、わたしたちに叫び声を上げて」(2)いるのだと。
フランシスコ教皇は、パウロ6世以降の歴代教皇が環境問題に取り組んできたことをふまえながら(3-6)、「自然環境がわたしたちの無責任な行動によって深刻なダメージを受けている」だけでなく、「同時に、社会環境もまた痛手を被って」いること、そして「これらは根本的に同じ悪に由来して」いると指摘しています(6)。
教皇は、ヴァルソロメオス総主教の言葉をふまえつつ、語ります ― わたしたちは「地球を傷つけてきた自分たちの姿勢を、それぞれが悔い改める必要」(8)があります。そして、問題の解決には「技術による解決だけでなく、人間性の転換による解決を探すことが求められます」(9)と。
そして教皇は、「傷つきやすいものへの気遣いの最良の手本であり、喜びと真心をもって生きた、総合的な(インテグラル)エコロジーの最高の模範」である聖フランシスコにならうよう招きつつ(10-12)、わたしたち皆が「おのおの自身の文化や経験、自発性や才能に応じた協力」(14)をするよう、呼びかけています。
第一章 ともに暮らす家に起きていること
「進歩や人間の能力に不合理な自信を抱いていた時代」(19)― 産業革命から今日に至るまでの時代と考えてよいでしょう ― に起きた「急速で間断なき変化」(18)が、人類と地球環境に深刻な影響を及ぼしています。加速する一方のこの変化は、はたして「共通善や全人的で持続可能な人類の発展に方向づけられて」(18)いるでしょうか? もしもそうでないとしたら、「人類の大多数の生活の質に害をもたらす」(18)でしょう。
「人々の健康に取り返しのつかない悪影響」(21)を及ぼす大気汚染、土壌や水の汚染は、「使い捨て文化と密接につながっており、そうした文化では、物がすぐゴミにされてしまうのと同様に、排除された人々が悪影響を被るのです」(22)。「わたしたちの産業システム」は「廃棄物や副産物を吸収し再利用する能力を開発して」きませんでした。だからわたしたちは、「現世代と将来世代のための資源保存を可能とする循環型生産モデルをいまだ適切に取り入れることができないまま」でいるのです(22)。
「気候変動は、環境、社会、経済、政治、そして財の分配に大きく波及する地球規模の問題です」(25)。ところが「世界中至るところで生じている苦しみへの無関心が広まっています。わたしたちの兄弟姉妹を巻き込む悲劇に対する反応の鈍さは、あらゆる市民社会の基礎である同胞への責任感の喪失を示しています」(同)。「現今の生産・消費モデルを持続していくならば」、気候変動の負の影響は「悪化し続けるであろう」と教皇は警鐘を鳴らしています(26)。
「清潔な飲み水」は人命にとって、生態系の維持にとって、なくてはならないものであるにもかかわらず、「いまでは多くの場所で需要が持続可能な供給を超えており、(…)深刻な結末を迎えています」(28)。「とりわけ重要な問題は、貧しい人々が利用できる水の質」で、「日々、安全でない水が大量の死、(…)水に関連した疾病の蔓延を招いています」(29)。「安全な飲み水を入手することは、人間の生存に不可欠」な、「基本的で普遍的な人権です。飲み水に事欠く貧しい人々は、不可侵の尊厳に根ざす生存権を否定されているのですから、わたしたちの世界は貧しい人々に返済すべき甚大な社会的負債を抱えているのです」(30)。
「地球の資源はまた、経済や商取引や生産の近視眼的な猛進のあまり、強奪されています。森や森林地帯の喪失は、食物のためばかりでなく病気の治療や他の用途のためにも将来的にきわめて重要な資源となるかもしれない種の喪失を伴います」(32)。「地球の肺と称される生物多様性が豊富な場所」は「地球全体にとって、また人類の未来にとって」どれほど重要な場所でしょう(38)。また、「熱帯や亜熱帯の海で見られるサンゴ礁は、陸地の巨大な森林に相当するもの」で、「魚類、甲殻類、軟体動物、海綿動物、藻類を含め、百万近くの種のすみかになってい」ますが、その多くが「枯れたり、あるいは衰退し続けています」(41)。「すべての被造物はつながって」います。「わたしたちは皆互いを必要としている被造物なのです」。だからわたしたちには「絶滅危惧種の保護を格別に配慮」する責任があるのです(42)。
わたしたちは、「環境悪化や現今の開発モデルや使い捨て文化が人々の生活に及ぼす影響を考えないわけにはいきません」(43)。無秩序に成長した都市は、「有毒排出物による汚染のためだけではなく、都会の秩序のなさや交通機関の問題、視覚や聴覚に影響する汚染の結果としても、暮らすには不健康なところとなってしまいました」(44)。
いまや地球規模で変化する世界に見られるのは、「社会的疎外、エネルギーや他のサービスの不公平な分配や消費、社会の分断化、増大する暴力や新しい形態の社会的攻撃の増加、麻薬取引、増加する若年層の薬物使用、そしてアイデンティティの喪失」(46)といった、社会の崩壊の兆候です。
「人間環境と自然環境はともに悪化します。人間や社会の悪化の原因に注意を払うことなしに、環境悪化に適切に立ち向かうことはできません。実際、環境と社会の悪化は、地球上の最も弱い人々に影響します」(48)。だから、「真のエコロジカルなアプローチは、つねに社会的なアプローチになるということ、すなわち、大地の叫びと貧しい人々の叫びの双方に耳を傾けるために、環境についての討論のなかに正義を取り入れなければならないということ」(49)を認識すべきです。
国際関係において考えるなら、「真の意味での『エコロジカルな債務』が存在し、なかでも世界の南北間におけるそれは大きく、環境に影響する貿易の不均衡や、ある国々によって長期間行われてきた天然資源の過度な使用につながっています」(51)。「気候変動には差違ある責任があるということを意識し続けなければなりません」(52)。
「この二百年間ほど、皆がともに暮らす家を傷つけ、また虐げてきた時代はありません」と指摘しつつ、フランシスコ教皇はこう続けます。「しかしわたしたちは、父なる神の道具となるよう呼ばれています。それは、わたしたちの星が、創造の時にお望みになられたものとなり、平和と美と充満へと向かう計画にかなうものとなるためです」(53)。ただ、わたしたちは「この危機に立ち向かうために必要とされる文化」をいまだもたず、「将来世代に被害を与えることなく現在の必要を満たすことのできるリーダーシップ」もありません(同)。
「国際政治における反応の鈍さ」は「政治がテクノロジーと金融に屈服している」から、「経済的利害がいともたやすく共通善に優先され」るからです(54)。
「環境の悪化と、人間とその倫理の頽廃とが密接にかかわっている」ことは明らかなのに、「多くの人は(・・・)限りがあり終わりがある世界という現実に気づく勇気」をもたずにいます(56)。「見ないでおこう、認めないでおこう、重要な決断を先延ばしにしよう、なかったことにしよう――、これが、自己破壊的な悪徳を勢いづかせるために人間がとる方策です」(59)。
わたしたちは「将来に向けての実行可能なシナリオを描かなければなりません」(60)。「出口への道は必ずある――、そう考えるよう、希望はわたしたちを招きます」(61)。しかし、「現今の世界の構造は、多様な観点から確実に持続不可能です。なぜならわたしたちは、人間活動の目的について、考えることをやめてしまったからです」(同)。
第二章 創造の福音
「科学と宗教は、それぞれに独自のアプローチで現実を理解しながら、双方に実りをもたらす中身の濃い対話に入ることができるのです」(62)。
複雑な問題にたいする解決策は、一つの方法だけから生まれるのではありません。「科学のいかなる部門も知恵のいかなる表現も除外されてはならず、それには宗教と宗教特有の言語も含まれ」るのです(63)。だから、「自らの確信に由来するエコロジカルな責務をわたしたち信仰者がよりよく自覚することは、人類にとって、また広く世界にとってよいことなのです」(64)。
創世記は「密接に絡み合う根本的な三つのかかわり、すなわち、神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆」していますが、「これら三つのかかわりは(・・・)引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」。神に取って代わろうとした人間の罪ゆえに、「創造主と人類と全被造界の間の調和が乱され」てしまったのです(66)。
神は人間に大地への支配権を与えられましたが、それは「世界という園」を「耕し守る」ためであって、自然を無制限に搾取するためではありません。「人間と自然の間には互恵的責任というかかわりが存在」し、人間は「大地を保護し、その豊穣さを将来世代のために確保する義務を有してもいます」(67)。
「神が全能であり創造主であることを忘れる霊性を受け入れることはできません。そうなると結局わたしたちは(・・・)神の創造のみわざを踏みにじる無制限の権利を主張するまでになるのです」(75)。
「ユダヤ・キリスト教の伝統において、『被造界』という語は(・・・)神の愛に満ちた計画に関係しているゆえに、『自然』よりも広い意味をもっています」(76)。「神の愛が、創造されたすべてのものを動かす原動力」となっているからです(77)。ユダヤ・キリスト教は「自然を神聖なものとは見ません。この非神格化によって、自然に対するわたしたち人間の責任が一層強調され」るのです(78)。
「宇宙は一つの全体として、その多様なかかわりすべてをもって、神のくみ尽くしがたい豊かさを表明しています」(86)。わたしたちは「宇宙に属するものとして見えないきずなによって結ばれて、宇宙家族ともいえる、聖にして愛情深く謙虚な敬意で満たす崇高な交わりを形成して」いるのです(89)。
だからといって、「これは、すべての生き物を同じレベルに置くことではなく、また人間からその独自の価値とそれに伴う重大な責任を奪うことでもありません」(90)。環境への配慮は「仲間である人間への真摯な愛、そして社会問題の解決のための揺るぎない献身と結ばれる必要があります」(91)。「大地は本質的に共通の相続財産であり、その実りは、あらゆる人の善益のために」あるのです(93)。
イエスは「被造界との全き調和の中に生き」ていました(98)。「キリスト教の世界理解では、全被造界の運命は(・・・)キリストの神秘と密接に結ばれています。(・・・)キリストの神秘が、一つの全体としての自然界において、その自律性を妨げることなく、隠れた仕方で働き続けて」いるのです(99)。
第三章 生態学的危機の人間的根源
生態学的危機に「人間的な根源を認めないなら、ほとんど意味がありません」(101)と教皇は言います。実際に、人類は「重大な決断を迫る危機に立たされ」(102)ています。技術主義(テクノクラティック)パラダイムが地球規模化し、わたしたちを規格化しているから、経済や政治においても負の影響を与えているからです(106-109)。
それでもわたしたちは「テクノロジーに制限を定めそれを方向付けるのに必要な自由を有して」おり、その自由を「もっと健全で(・・・)より全人的な進歩のために役立てることができます」(112)。
「近代の人間中心主義は(・・・)現実よりも技術的思考を重視するところに行き着いてしまいました」(115)。現実とそれが課す限界」を注視すること、それが「個人と社会がより健全で実り豊かな発展を遂げていくための条件となるのです」(116)。
「逸脱した人間中心主義は、逸脱したライフスタイルへと導きます。(・・・)人間が自分自身を中心に据えるとき、人間は刹那的な利便性を何よりも優先し、他のすべては相対的なものとなります。(・・・)環境悪化と社会崩壊へと至らせる論理」がそこに働いているのです(122)。
この章の最後で、教皇はバイオテクノロジーの問題を取り上げながら、「広範で責任ある、科学的で社会的な討論、入手可能なすべての情報を考慮に入れ、率直に話せる討論が行われる必要がある」(135)ことを強調します。なぜなら「テクノロジーが非常に重大な倫理原則を無視するとき」、テクノロジーの暴走が起こるからです(136)。
第四章 総合的な(インテグラル)エコロジー
あらゆるものは密接に関係し合っているため、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮しなければなりません。それには「総合的な(インテグラル)エコロジー」という観点が必要です(137)。
「知識の断片化や情報の細分化は、現実に対するより広範な展望へと統合されないのなら、実際には一種の無知となりうるのです」。だからわたしたちは、「自然と、その中で営まれる社会とのかかわり」を常に意識する必要があります。環境危機と社会危機は別個の二つの危機ではなく、「一つの複雑な危機」ととらえるべきなのです(138-139)。
「社会制度の健全さは、生活の質と環境とに影響を及ぼします」。ですから、社会制度を「弱体化させるものは何であれ、不正義や暴力や自由の喪失といった否定的な結果」をもたらすだけでなく、環境を悪化させもするのです(142)。
総合的な(インテグラル)エコロジーは共通善の概念と不可分な関係にあります。「共通善の要求は、社会的な平和、何らかの秩序がもたらす安定や安心であり、それらの達成は、配分的正義への格別の配慮なくしてはできません。(・・・)社会、なかでも国家は、共通善を保護し促進する義務を負っています」(156-157)。
将来世代への責任も視野に入れるべきです。「この世界は後続世代にも属するものゆえに、世代間の連帯は、任意の選択ではなく、むしろ正義の根本問題なのです」(159)。
「消費と廃棄、そして環境変化の進行速度が、地球の許容量を超えようとしており、現代のライフスタイルは持続不可能なもので、今でさえ世界のあちこちで周期的に生じている破局を早めるばかりです」(161)。
第五章 方向転換の指針と行動の概要
人類の現状を見るに、「何らかの方向転換と、これまでとは違った行動方針の必要性を示して」いることは確かです(163)。そして、この問題に取り組むためには、「世界的視野に立つ解決策の提案」、「世界規模の合意が不可欠です」(164)。
「貧しい国にとっての最重要課題は、極度の貧困の撲滅と自国民の社会的発展の推進でなければなりません。(・・・)そのためには、進行中の地球汚染という代価を払って大きな成長を遂げた国の援助を必要とします。(・・・)発展途上国が技術移転や技術支援や財源を得られるようにするメカニズムの構築」が必要なのです(172)。
「いくつかの場所で展開している再生可能エネルギー源の開発協同組合は、エネルギーの地産地消を確立し、余剰エネルギーの販売さえも可能にしています。これは、既存の世界秩序がその責任遂行能力のなさを露呈する一方で、地域の個人や集団は実質的変化をもたらすことができるということを示す端的な例です。(・・・)決定的な政治行動を起こさせるには、世論による圧力が発揮されなければなりません」(179)。
気候変動と環境保護に関する政策は「継続性が必要不可欠」です。「制度を改革・調整し、最良の実践を推進し、不当な圧力や官僚的ななれあいを克服できる健全な政治が、切に求められています。しかしながら、そこに高潔で寛容な道筋を各社会に示すことのできる、優れた目標、価値観、あるいは真正で深みのあるヒューマニズムがなければ、たとえ最良の仕組みがあっても役に立たないだろうと言い添えておかねばなりません」(181)。
新規事業の環境影響評価(アセスメント)には「自由な意見交換を伴う透明な政治的手順が必要」であり、「見せかけの合意」があってはなりません(182)。それは「学際的で、透明で、いかなる経済的あるいは政治的圧力からも自由な状況で実施」されるべきもので、かつ、「話し合いの席では、地域住民が特別な位置を占めなければなりません」(183)。また「深刻で取り返しのつかない損傷の生じる可能性」がある場合には、「決定的な証拠がなくとも、プロジェクトは中止、あるいは修正されるべきです」(186)。
「政治は経済に服従しては」なりません(189)。環境は市場の力で保護したり促進したりすることができないものです(190)。「天然資源の持続可能な使用を促進する取り組みは、無駄な出費ではなく、むしろ、中長期的に別のかたちの経済的恩恵をもたらしうる投資です」(191)。「より創造的でより適切に方向づけられた生産活動」の発展と多様化は「環境保護とさらなる雇用創出とを同時になしつつ、創造と革新の才をあふれんばかりの可能性で満たします」(192)。
わたしたちは進歩に対する考えを改める必要があります。「よりよい世界と全人的なより高い生活の質とを残すことのないテクノロジーや経済の発展は、進歩とはみなせません」(194)。
「もし人類が自らの羅針盤を失えば(・・・)科学が約束するいかなる技術的解決も、世界の深刻な問題の解決に対して無力です」。信仰者は「自分の信仰にかなう生き方をし、行いでそれに背くことのないよう、つねに自分を戒めなければなりません」(200)。
第六章(最終章) エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性
わたしたちは「新しい信念、新しいライフスタイル」を成長させるべきであると教皇は指摘します。なぜなら、わたしたちは「文化的で霊的で教育的な重要課題に直面しており、再生のための長い道のりに踏み出す」よう求められているからです(202)。
人は「心が空虚であればあるほど、購買と所有と消費の対象を必要とし(…)、共通善に対する真正な感覚」をなくします。ですからわたしたちは、「極端な気候現象の脅威」だけでなく、「社会不安という破局的結末」をも懸念すべきです(204)。
しかし人間は、「善なるものを選び直し(…)、真の自由へと新たな歩みを始める」ことができるのです(205)。個人主義を克服することができるなら、わたしたちは「これまでとは異なるライフスタイルを作り出し、大いなる社会変化をもたらすことができるでしょう」(208)。
日々のささやかな行いを通してライフスタイルを変えさせるような環境教育が必要です(211)。そうしたエコロジカルな教育にとって、家庭が非常に重要であると教皇は強調します。なぜならわたしたちはまず家庭の中で、「いのちに対する愛と敬意の示し方(…)、地域の生態系を尊重すること、すべての被造物を気遣うこと」を学ぶからです(213)。
利己的な実用主義を退け、「人間や生命や社会についての、また自然とのかかわりについての新しい考え方を普及させる」よう努力することが必要です(215)。
「二千年にわたる個人と共同体の経験の実りであるキリスト教の霊性の豊かな遺産には、人間性の刷新の力となりうる貴重な貢献が内包されています」と述べつつ、教皇はエコロジカルな回心を促します(216)。
「生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります。」エコロジカルな回心、それは「イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりのなかで(・・・)神の作品の保護者たれ、との召命を生きること」なのです(217)。
「被造物との健全なかかわり」は「全人格に及ぶ回心の一面」であり、「その回心によってわたしたちは、過ち、罪、落ち度、失敗に気づき、心からの悔い改めと、変わりたいという強い望みへと導かれます」(218)。
とはいえ、「各人の自己改革だけで、今日の世界が直面している極度に複雑な状況が改善することはないでしょう。(・・・)社会問題は、個人の善行の積み重ねによるばかりでなく、共同体のネットワークによって対処されねばなりません。(・・・)永続的な変化をもたらすエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあります」(219)。
「わたしたちは他の被造物から切り離されているのではなく、万物のすばらしい交わりである宇宙の中で、他のものとともにはぐくまれるのだということを、愛をもって自覚すること」が求められているのです(220)。
そして教皇は訴えます、「自らの回心のこうした次元を認識し、それをしっかり生き(・・・)受けた恵みの力と光が今度は、他の被造物との、また周りの世界とのかかわりの中に広がっていきますように」と(221)。
「キリスト教の霊性は、生活の質についての別種の理解を示し、消費への執着から解放された自由を深く味わうことができる、預言的で観想的なライフスタイルを奨励します。(…)それは『より少ないことは、より豊かなこと』という確信」であり、「節度ある成長とわずかなもので満たされること」の提言です(222)。「そうした節欲は、自由にそして意識的に生きられるならば、解放をもたらします。それは劣った生き方でも、刺激に欠けた生き方でもありません。それどころか、それは生を全うする生き方なのです。実際、一瞬一瞬を深く味わい、それをよりよく生きる人は、自分がもっていないものにいつも気を取られて所構わず手を出すことを放棄した人です。そういう人は、もっとも単純な物事に親しむことを学び、また、それらをどう味わうかを学びつつ、それぞれの人や物事をありがたく思うとはどのようなことかを体験します。(…)慎ましく生活していても、そうした人は、とくに友との交わりに、奉仕に、才能の成長に、音楽や美術に、自然とのふれあいに、祈りに、別の喜びを見いだし満足して、心豊かに生きているはずです。幸福とは、自分をだめにするような欲求を抑えて、人生が与えてくれる多様な可能性に開かれること、そのすべを知ることです」(223)。
「生態系の十全性(インテグリティ)について語るだけでは、もはや十分ではありません。人間の生の十全性(インテグリティ)について(…)あえて語らねばなりません。ひとたびわたしたちが謙虚さを失い、あらゆるものへの制限なき支配の可能性に魅入られてしまえば、社会と環境とに害をなさずには済まなくなります」(224)。
「自然への配慮は、共生と交わりの力を備えたライフスタイルの一部です」(228)。「わたしたちは互いを必要として」おり、「他者と世界に対して責任を共有している」という確信を取り戻さなければなりません(229)。
「リジューの聖テレジアは、愛の小さき道を実践すること、また優しいことばをかけ、ほほえみ、平和と友情を示すささやかな行いのあらゆる機会を逃さないようにと、わたしたちを招いています」(230)。「相互配慮のささやかな言動を通してあふれ出る愛はまた、市民性にも政治性にも見られるものであり、よりよい世界を造ろうとする一つ一つの行為において感じられます。(…)社会に向かう愛は真の発展への鍵です。(…)それは、愛徳の実践であり、それ自体がわたしたちを成熟させ聖化してくれるものです」(231)。
「天地万物は、遍在する神において、真の姿を開示します。それゆえ、ひとひらの葉に、一本の野道に、一滴の露に、貧しいだれかの顔に、神秘的な意味が見いだされうるのです」(233)。「諸秘跡は、神が自然を、超自然のいのちを仲介するものへと高める、特別に恵まれた手段です」(235)。とくに、「創造されたすべてのものがもっとも高められるのは、聖体においてです。(…)それは万物のいのちの源であり、愛とくみ尽くすことのできないいのちとがあふれ出る泉です。全宇宙は、聖体の中に現存なさる受肉した御子に結ばれて、神に感謝を捧げます。(…)聖体は、天と地を結び、被造界全体を抱き、そして貫きます。神のみ手から生まれた世界は、全被造物が喜びにあふれ一つになって礼拝することを通して、神に帰るのです」(236)。
「世界は、唯一の神的原理として行為する三つの位格(ペルソナ)によって創造されましたが、この共同のみわざを、おのおの固有のしかたで行いました」(238)。ですから、「キリスト者にとって、三一的な交わりである唯一の神に信を置くことは、全被造物が明確に三位一体的な痕跡をとどめていると考えることにつながります」(239)。「神をモデルにして創造された世界はかかわりからなる織物です。(…)あらゆるものはつながり合っており、そのことが、三位一体の神秘から流れ出る、かの地球規模の連帯の霊性をはぐくむよう、わたしたちを促すのです」(240)。
最後に教皇は、全被造界の女王である聖マリアに「この世界を知恵の眼(まなこ)で見られるようにしてください」(241)と願いつつ、「託されたこの家の責任をともに引き受け(…)すべての被造物と一つになって、この地を旅しながら神を探し求め(…)歌いながら進みましょう」(244)とわたしたちを招きます。なぜなら「主がご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれ、またその愛が、前へと向かう新たな道を見いだすよう、たえずわたしたちを駆り立ててくださるからです」(245)。そして二つの祈り、「わたしたちの地球のための祈り」と「被造物とともにささげるキリスト者の祈り」をもってこの回勅を閉じます。
わたしたちの地球のための祈り
全能の神よ、
あなたは、宇宙全体の中に、
そしてあなたの被造物のうちでもっとも小さいものの中におられます。
あなたは、存在するすべてのものを
ご自分の優しさで包んでくださいます。
いのちと美とを守れるよう
あなたの愛の力をわたしたちに注いでください。
だれも傷つけることなく、兄弟姉妹として生きるために、
わたしたちを平和で満たしてください。
おお、貧しい人々の神よ、
あなたの目にはかけがえのない
この地球上で見捨てられ、忘れ去られた人々を救い出すため、
わたしたちを助けてください。
世界貧(むさぼ)るのではなく、守るために
汚染や破壊ではなく、美の種を蒔(ま)くために
わたしたちのいのちをいやしてください。
貧しい人々と地球とを犠牲にし利益だけを求める人々の
心に触れてください。
それぞれのものの価値を見いだすこと、
驚きの心で観相すること、
あなたの無限の光に向かう旅路にあって
すべての被造物と深く結ばれていると認めることを、
わたしたちに教えてください。
日々ともにいてくださることを、あなたに感謝します。
正義と愛と平和のために力を尽くすわたしたちを、
どうか、勇気づけてください。
被造物とともにささげるキリスト者の祈り
父よ、
あなたが造られたすべてのものとともに、あなたをたたえます。
すべてのものは、全能のみ手から生み出されたもの。
すべてのものはあなたのもの、
あなたの現存と優しい愛に満たされています。
あなたはたたえられますように。
神の子イエスよ、
万物は、あなたによって造られました。
あなたは母マリアの胎内で形づくられ、
この地球の一部となられ、
人間のまなざしで、この世界をご覧になりました。
あなたは復活の栄光をもって、
すべての被造物の中に今日も生きておられます。
あなたはたたえられますように。
聖霊よ、あなたはその光によって、
この世界を御父の愛へと導き、
苦しみにうめく被造物に寄り添ってくださいます。
あなたはまた、わたしたちの心に住まい、
善をなすよう、わたしたちを息吹かれます。
あなたはたたえられますように。
三一の主、
無限の愛の驚くべき交わりよ、
わたしたちに教えてください
宇宙の美しさの中で、
すべてのものがあなたについて語る場で、
あなたを観想することを。
あなたがお造りになったすべての存在にふさわしい、
賛美と感謝を呼び覚ましてください。
存在するすべてのものと深く結ばれていると感じる恵みをお与えください。
愛の神よ、
地球上のすべての被造物へのあなたの愛の道具として、
この世界でのわたしたちの役割をお示しください。
あなたに忘れ去られるものは何一つないからです。
無関心の罪に陥らせず、
共通善を愛し、弱い人々を支え、
わたしたちの住むこの世界を大切にできるよう、
権力や財力をもっ人々を照らしてください。
貧しい人々と地球とが叫んでいます。
おお、主よ、
すべてのいのちを守るため、
よりよい未来をひらくため、
あなたの力と光でわたしたちをとらえてください。
正義と平和と愛と美が支配する、あなたのみ国の到来のために。
あなたはたたえられますように。
アーメン。