さあや様の闘病記

さあやのプロフィール:37歳(2004現在) 女 蠍座のA

家族構成:夫(39歳)、長男(8歳)、長女(2歳)、犬2匹、猫1匹、魚いっぱい

勤めていた某精密機器メーカーを辞めS大学大学院に入学。主に水関係の環境問題に取り組むべく研究者を目指して勉強中にいろいろあって現在に至っています。

2001-6

 

 

2002-3

 

 

 

 

 

 

 

 

2002-12

 

 

2003-3

 

 

 

2003-4

 

 

 

 

 

2003-5

 

 

 

 

2003-6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2003-7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2003-8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2003-9










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2003-12

 

 

 

2004-3







2004-6






2004-7

 

 

 

 

 

 

2004-8

S大学大学院博士後期課程2年次

2子妊娠判明 →休学

 

長女出産

 

 

 

育児をしながら投稿論文を執筆

たまに打ち合わせのため登校

 

 

 

地元のカルチャー教室「大人のためのピアノ教室」参加を決める

 

「大人のピアノ教室」終了

有志で音楽サークルを立ち上げ活動を継続することにする

 

S大学に復学(博士後期課程3年次)

長男 小学校入学

長女 保育園入園

地区の保険補導員をおおせつかる・・・順番なので仕方なく受諾(1年間)

 

就職活動を開始

某社研究所に入社することが決定 

 

 

 

某社研究所に入社

医薬品の安全性評価を動物を使って行う部署で8301630のパート勤務

 

仕事がなく、あっても本棚の整理や簡単な実験補助にとどまり暇をもてあます日々が続いた

机もロッカーも与えられず職場では居心地の悪さを感じていた

指導教官の反対を押し切って就職したのにと焦りを感じ始めた

 

空虚感に耐えられなくなり会社の総務に現状(仕事がない等)を訴える

→ 改善するとの回答

 

 

 

 

地区の保険補導員部会で「中高年の鬱」というタイトルの寸劇をやることになり毎週月曜夜に練習が入る

 

 

 

 

 

研究所長の意向で他部署に異動

入社に際し配属を希望した部署であったが体の疲労感が強くあったため

勤務時間を9001600に短縮

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「更年期障害の初期では」という友人の進言で産婦人科(長女を出産したところ)を受診

ドグマチール、デパス、漢方薬を処方される

 

某総合病院精神科(A医師)を受診 薬の処方は産婦人科と同じものだった

 

A医師の診察日にでかけられない日が続きB医師を受診

ドグマチールの副作用がきつかったため服用中止。アモキサンを処方される

 

大学の指導教官に病気を報告

 

長女が磁石を飲み込んで咽喉に詰まらせ救急車を呼ぶというハプニング

→ 帰りの道中で車から飛び降り何も持たずに約8kmの道のりを歩いて帰った

 

B医師に窮状を訴え、入院。

アモキサン、デパス、レンドルミンと、頓服でマイスリーを服用

 

会社に11月末までの休職願いを出し自宅療養

 

復職。1週間ほどで仕事がまともにできなくなり退職願を提出

 

 

S大学の卒業式に出かけ、

後輩を送り出したあと指導教官と面談

今後の進め方について相談

 

 

 

 

投稿論文執筆再開。

区切りごとに大学に行き指導教官と面談、順調。

 

アモキサン減薬。

 

論文に疲れを感じ始める

中旬頃よりまったく書けなくなる

 

 

7/30-8/1 夫の実家に帰省

移動は車で片道8時間半、滞在は1日だけでとんぼ返り

 

8/5ピアノ発表会

 

自力回復はできないと判断し病院に電話。B医師が8月末まで休みのため臨時のC医師が診察、うつ病再発との診断がされる

 

 

 

長男出産時は産後ウツに悩まされたがこの時もホルモンバランスが崩れていることを実感。体力的に育児がきつかった。

 

ずっと子供と2人きりでストレスがたまっていた。論文を書くことと時折大学からゼミのレジュメが郵送されてくることでつながりを感じ元気を出していた。

 

気晴らしのため。冬場は週1回レッスンに通いピアノを弾いて余暇を過ごすようになる。

 

大学復学に備えて保育園探しや事務手続きに終われ結構忙しかった。

 

 

この頃の生活

700 長男を送り出す

730 長女を保育園に送る

9001630 大学

1800 子供たちを迎えに行き帰宅

 

6月からすぐ来て欲しいといわれ指導教官ともめたが、大学に籍を置いたまま就職することに決定。働きながら学位取得を目指すことになった。

 

この頃の生活

800 長女を保育園に送る

8301630 仕事

1700 子供たちを迎えに行き帰宅

 

土曜日 朝9時頃家を出て大学へ(1泊)

日曜日 夕方帰宅

(土曜の夜は徹夜になることもあった)

 

希望した部署ではなかったが誠心誠意働くつもりで毎日出社していた。

 

なんのために会社に行っているのか、自分は本当に必要とされているのか、と毎日悩み、居場所がなく、空虚感でいっぱいだった。

週末を大学で過ごすことで自分の場所をやっと確保していたが、後輩たちと徹夜になることもあり体の疲労感が増す。

 

保険補導員部会の大会に備えて練習が始まり練習日は夕食を抜くこともしばしば

→ なぜこんなことまでしなくてはいけないのかとイライラしていた。

 

このころは音楽サークルの活動や発表会をこなすことで自分を維持していた。

 

体調の変化を自覚

当初希望していた職場への異動であったにもかかわらず喜びを感じなかった

気分を変えようと思って景色を見たり、食事に行ったりしても他人事のようで実感がまったくない

仕事の効率が悪く思うように進まず、疲労感が取れない、資料を読んでも頭を素通りして入ってこない

早朝(だいたい330くらい)に目が覚めそのまま朝まで寝付けない。時間になると逆に布団から出られない

夜、布団に入ると「また明日が来る」と思って憂鬱になり寝付けない

慢性的な頭痛と微熱、手足の冷え、関節痛に悩まされる

このころ投稿した論文にありえないはずの重大なミスを指摘され、頭が正常に働いていないことを痛感

 

「中高年の鬱」の劇中人物の発言と自分の症状が妙に一致していることに気づき、ひょっとしたらうつ病にかかったのではないかと自覚。

→ 劇練習はドクターストップでリタイア

 

薬を飲むとふらつき、眠気が1日中取れないという日が続くが、医師には「そんな強い薬は使っていない」と言われた。

 

怒りが磁石をおもちゃにした長男に向かい、自分を抑えられなくなりそうな恐怖を夫に訴えるも相手にされずパニックになった。

 

 

 

1週間ほどでパニック状態からは落ち着き特定の人とは会って普通に話ができるくらいに回復。

 

 

 

 

抑うつ感、無力感、空虚感から立ち直れず。

気分は比較的安定しているが気力は常に低い状態が続いていた。

 

また大学に戻れること、指導教官が大学発ベンチャーの立ち上げを考えていること、学位取得後はその会社で働けることを示され大変嬉しかった。

 

このあたりから一気に浮上。回復を実感。

 

家事は一通りこなし、12時間くらいを論文の執筆に当て、疲れたら休んだりピアノを弾いたりして過ごした。

 

 

 

論文を書けないことにあせりを感じ始めた。

長男のピアノ発表会で自分も出番があり練習にも追われていた。

 

体調の悪化を感じ行きたくないと直前までごねたが結局行くことに。非常に疲れた。

 

 

帰ってすぐピアノ発表会があり極度に緊張。

 

子供の夏休みによる疲労とストレス、ささいなことにも敏感になりお盆の親戚の行事などはすべて欠席。


その後の経過

 

再発と診断され、減薬途中だったアモキサンの量を元に戻したがさらに悪化

これまでで最悪の状態に陥り1週間後再度C医師を受診。ルジオミールを処方される

その後10日ほどで日常会話はできるくらいに回復。しかし対人恐怖と不安感が強く気分不安定、さらにワイパックスとレキソタンが追加される

主治医を、B医師から緊急時に対応してくれたC医師に代わってもらう

 

現在は、状態はだいぶ安定し少しずつですが回復傾向にあります。再発せず順調に回復すれば2004101日付で大学院に復帰し、20053月学位取得という流れになるはずでしたが、再発によってさらに病状が悪化してしまったため復帰は無理ということになり、20053月末まで休学の延長を願い出て受理されました。それまでは治療に専念することになりました。

 

感想・反省・自戒

 

7月中旬、この時点で再発を疑い早めに受診していれば、ここまで悪化させずに持ち直すことができたのではないかと思います。

受診しなかった理由の一つとして、当時の主治医(B医師)が非常勤で、週に1回しか診察日がなくふだんは遠くに居られたため受診しにくかったこともあります。これは常勤であるC医師に主治医になってもらうことで解決し、またC医師が信頼できる方だったことで、治療のための環境としては非常に良くなったと思っています。

200310月に入院してから20046月に回復したと思えるまでの間、2度の転機がありました。一度目は入院から10日ほどでぐっと良くなったと感じ、2度目は20043月に大学の指導教官と面談し将来の方向付けがされた時、希望の光が差し込みそれをきっかけに一気に回復しました。疑問なのは、その間の薬の効き目です。本当に薬は効いていたのか、こうしたきっかけがなかったら低空飛行がまだ続いていたのではないかと思われます。

低空飛行が続いていた間、私はそのことを主治医(B医師)に的確に伝えられていなかったと反省しています。なかなか回復してこない、ということを率直に伝えていたならば、薬の種類なり量なりを検討され、適切な治療を受けられたと思います。

結論。今後は主治医であるC医師に病状や経過をすべて伝え、復帰についても積極的に方法を探っていくつもりです。回復後も体調に気を配り、再発の兆しが見られたら早めに対策を取るよう、反省を活かしていきます。