ろこさんの場合
 

私は、1966年9月12日とある出版会社社長家の三女として生まれました。その当時のご近所の生活と比べると、高級自家用車運転付き・当時珍しかったカラーテレビ・東京都にマイホームと、いたって経済的には裕福な中にありました。当時副社長をしていた母は、ほとんど私を産み落としたような状況で、私は4歳までお手伝いさんに、それ以降は母方の祖母に育てられました。

 好景気に乗ってどんどん会社は大きくなり、それに伴って我が家の生活は豊かになっていくのと反比例して、母親・父親との親子の時間がまったくといっていいほど無くなっていきました。4歳になった私は神奈川の環境の良いところへ引越となり、経済的な豊かさはどんどん膨らみながら、私の両親への気持ちはどんどん寂しさに変っていきました。お手伝いさんの結婚を期に、私たち兄弟三人は母方の祖母に養育を委ねられました。地元でも評判の私立の幼稚園、小学校と傍から見るととても幸せな家族に映ったことでしょう。でもふたを開ければ朝ごはんの無い朝、毎日お風呂に入っているのか、歯磨きをしているのか、ちゃんとご飯を食べているのか、熱を出して学校を休んでいることさえ知らない、知ろうともしない両親でした。会社は田舎の高等学校しか出ていないコンプレックスの塊である父に比べ、当時、女性には珍しく有名大学をトップクラスで卒業した最先端を常に歩く母が、ほぼ会社の実権を握っていたといっても過言ではありませんでした。そんなことが表面化しつつある頃から、父、母の関係がおかしくなっていきました。

金欲の塊でワーカーホリックだった父は母を会社からはずし、当時母を慕っていた社員数十人の首を全て切りました。そしてすがるように父に店を出してもらった母は、だんだん夜の道にはまっていきました。家の中が豊かでありながら、金銭的に自由にならなかった矛盾と、祖母に対する父の人間とは思えない仕打ち、それに耐えかねた母は家を飛び出し、その後話し合いが進み、姉と当時3年生を終わろうとしていた一番小さかった私を連れて別居をしました。その当時もうすでにまったくといっていいほど母に対する信頼感などありませんでした。母は生計を立てるために東京に残り、姉と私と祖母は唯一母名義だった群馬県の父の実家の傍に別荘として建てられた家に越しました。月に1,2度しか母が会いにこられない生活に耐えかね、その当時まったくといっていいほど母に対する信頼感のなかった私は、時に良い子になり、時に悪い子になりながら、どうやっても母との距離が埋まらない寂しさがピークに達していました。私に会いに来た父に私は泣いてすがり、結局神奈川へ戻されました。でもそれが母に慰謝料を払わないための父の思惑であったことごく最近母の口から聞かされました。

神奈川に戻った私は道具として使われたことを、今から思うと納得できるほど放任されました。普通の小学校に戻され、学校へは行かず引きこもり、生活は夜型になり、当時貧弱だった私は過食によって、163センチの身長に75キロという醜い恨みの塊へ変化していきました。学校がすぐそばだということもあって、昼の休み字間になると先生が毎日迎えに来る生活が続いていても、父は仕事を盾に、先生の説得に対しても聞く耳を持たず、ただただ私を放任する生活が続きました。そして絶えず「お前たちは母親に捨てられたんだ」と、どんどん崖のふちへ追いやっていきました。掃除、洗濯、買い物、夕食の支度と5年生だった私は学校から帰ると当たり前のようにこなしていました。そんな頃も母は自分に背いた私に、週一回ですが会ってくれていました。料理の作り方等を聞いたり、買い物をしたりと唯一救われる時間で、別れる時にとても寂しかったことを覚えています。

 その頃から私を取り巻く環境に異変が起こり始めました。6年生も終わろうとしていた頃… 私は家族から性的虐待の標的となりました。父は大阪にも支社があり年に何回かの出張がありました。ある晩、私と兄の二人きりの家の中でそれは始まりました。あまりの驚きとあまりの恐怖にただ眠ったふりをするしか防御する手立てがありませんでした。その行為は私が16歳になり家を飛び出すまで限りなく続きました。姉が中学一年の時に母の元から連れ戻された後も続き、抵抗できない私は、学校ではいじめ、家では性的虐待とのはざまにもがき苦しみ、どんどん生きる気力をなくしていきました。そして中三になった私に進学問題が浮上し行きたくないという私を、世間体のため無理矢理高校へ進学させようと勝手に学校と相談、やりきれなくなってしまった私は、最初の自殺未遂でした。ガスを部屋に充満させ静電気一つで大爆発を起こすほどの濃度まで上がり、近所中大騒ぎになりました。でも今思うとそれが小さな抵抗の始まりだったのです。受験も抵抗し、白紙状態で挑んだものの、単願だったので補欠合格してしまいました。そんな頃、母と会っていた私は衝撃を受けました。それは母が再婚するというひとことでした。せっかく埋まりつつあった母との距離が一気に離れ、自分が音を立てて崩れていく、凍りつくような瞬間でした私は一気に転落、族であったリーダーの先輩とその仲間そんな中に埋もれていきました。いじめられるもいじめるに変り、週末になると特攻服にさらしを捲いて暴走族集会、ディスコにナンパ、朝帰り、万引き、そこが唯一私の生きる場所でした。先輩たちもいろんな境遇にあり一心同体だったという安堵感の中でした。

そんな中、初恋を体験しました。そのリーダーの先輩に恋をしたのです。でも先輩は元彼女の妊娠、中絶、別れを期に、もう恋はしないと深く傷ついていて、言い出せないまま時が過ぎ、ある晩の事。家の遠くからバイクの音。家の前で止まり、顔見知りの族の一人が「先輩が事故った」と…  私は動転しながらバイクの後ろへ乗り、とあるアパートの一室に連れて行かれドアを開けると誰もおらず、先輩は?と尋ねると彼が凶変しました。そうですレイプです。淡い恋心を抱いていた私はまたも壊されてしまいました。パンツもはかず、はだしのままどうやって家まで帰ったかも覚えていません。当時から親友だった女友達にそのことを打ち明けると、先輩に相談。レイプした本人は集団で立てないほどボコボコにされ、地元中に知れ渡ってしまい、労わってこそくれましたが、かえってそれが辛く重くなりました。そんな頃、学校に行かず遊び歩いている私に、父親が本性を表わしました。世にいう不良の出入り、朝帰り、学校へ行かない、私立のわけありな子達が通うような学校なので莫大な入学金と授業料、反抗する私に怒りが頂点に達したのでしょう、デコボコになって紫色に腫れあがり、外に出られなくなるほど殴られ、そのまま先輩の家に転がり込み、地元にいる理由のなくなってしまった私は新宿へ流れていきました。

その頃、流行りだった女子大生パブに16歳でデビューし、サウナに泊まりながらお金を貯め、パブで友達になった子に途中から部屋を間借りし、自分名義の部屋を手に入れました。そして一人目の夫となる彼に出会うことになりました。客としてきていた彼は私にターゲットを絞り、呑め、呑めとお酒を飲ませ、わけのわからなくなった私をホテルに連れ込みましたそして目覚めた私は隣に寝ている刺青の入った彼に唖然としてしまい、あわてて自分の部屋に帰ろうとする私にお金を渡そうとしたのです。5万円、私をもの扱いです。頭にきた私はそのお金を突っ返すとそそくさと自分の部屋に戻りました。彼が私に対してほんの遊びから真剣な遊びになった瞬間でした。彼は店に通い指名されて仕方なく席についていた私の怒りも、いつしか情に変っていきました。何のためらいも無く、やくざじゃない、真剣に考えていると言っていた彼の嘘を信じ、そして愛に変るまでそう時間はかかりませんでした。そして知らぬ間に部屋に転がり込んできたのです。今から考えるとそんな頃が一番幸せな時期でした。そして私の分疑点となる第一歩を迎えることになったのです。

18歳も終わりに差し掛かった頃、初めて妊娠をしました。それまでは一緒になろうと言っていた彼は兇変、中絶しろの一点張りでした。当時彼のお兄さんから全ての真実を聞き、頭の中が真っ白になっていきました。別居中の奥さんがいること、子供も二人いること、やくざでしかも本部長であること、私と同棲してからも九州へ帰り妻や子供たちと会っていたこと、全て嘘で塗り固めて私と付き合っていたこと… それでも生みたいと抵抗する私を殴る蹴るあげくには黙って部屋を出て行きました。全てが崩れて生きる気力をなくしてしまい、とほおにくれて目の前が真っ暗になりました。死にたい、リスカをしても死ねない私は、とうとう本当に人生を終わらせる決意をして、別のやくざから購入した睡眠薬30錠を飲み、首の頚動脈を切断、朦朧の意識の中倒れこみました。これで私と赤ちゃんがやっと楽になれるって…

その日、昼間からなんか様子がおかしいと店の仲間が時間になっても出勤してこない私に電話をし、出ないと、私のところへ駆けつけ大家さんに部屋を空けてもらうと、9畳のフロア一面が血の海になって、そこに私が倒れこんでいたそうです。救急車が呼ばれて運ばれ、あわただしい声に目が覚めると鼻から管、首に包帯がぐるぐる捲きになって病院のベッドでした。のどが渇き咳をすると縫った傷口から血が噴出し、先生や看護婦さんが大慌てでした。輸血を4パックほどして、助けてくれた先生に対してどうして死なせてくれなかったと泣き喚くと、先生は静かに「私は人の命を助けることが仕事だからね、ここには生きていたくても生きていられない人もたくさんいるんだよ。辛いことがあったんだろうけど自分からそういうことは止めようね」と…   後数十分遅かったら命が無かったことと頚動脈の傷口が倒れ込んだ時に圧迫されている状態だったことを話してくださいました。約一年ぶりに連絡されて駆けつけた父親に、「何しに来た?私やくざの子妊娠して捨てられたの。どう?」と…  父は戸惑いながらも淡々と中絶手術の予約を先生と話し合って決めました。付き添いながらもこの間の病院費用は自費だから今回の手術と合わせると50万くらいかかるけど仕方ないなぁ。自殺騒ぎを起こしたためせっかく手に入れた自分の城も全て無くなり、また実家へ戻されました。

ほとぼりが冷めた頃、彼が私を迎えに来てまた結局新宿へ戻りました。依存です。
また彼の嘘は重なりつつあるものの、一度騙された私は賢くなり、パブでは無く今度は高級クラブへ…今までの倍近いお給料に、着物、ドレス、そんな中でもとにかく切り詰めてお金を貯めようと思っていました。彼に対して意地になっていたのでしょうか。今度妊娠したら絶対一人で生んで育ててやるって。300万ほど貯まり妊娠。それまで自分の過去をはっきりさせて一緒になろうの嘘がまた兇変、私一人でも生むといった私を毎日のように殴る蹴る。妊娠5ヶ月まで仕事をしていた私は、ときに顔のアザを化粧でカバーして出勤したこともありました。でもおなかの赤ちゃんは6ヶ月目のある日、ゴルフ用の傘でお腹を衝かれ、体内死亡してしまいました。病院のベッドでよその赤ちゃんの泣き声を聞きながら枕に顔をうずめ一人で声を上げずに枕がぬれるほど泣きました。いまだに思い出すと涙が出てくるくらい悲しい出来事でした。そして三人目に私を救ってくれたのが今の長男です。母には産むなら縁を切るといわれましたが、信じられない母の言葉がその当時耳に入りませんでした。相変わらず妊娠している私に殴る蹴る、真冬に水を桶いっぱいぶっかけられたこともありました。そんな状況の中にもかかわらず、9ヶ月で早産してしまったものの、無事健康に生まれてくれました。そして私の依存は彼からその息子へと変りました。

彼の別居中だった奥さんは、私の出産を期に離婚をしました。そしてバブル景気に乗って金融業を主体としていた彼の組織はどんどん膨らんでいきました。彼に依存しなくなった私に、彼は散々でした。子供を産んだ女は女じゃないと言い、息子が一歳になるかならないかの頃にホステスを妊娠させ、結婚していたわけではなかったのですが、私はあの組織の中で一応本妻の立場にあり、若い衆6人ほどに御姐さんなどと呼ばれて、その妊娠騒ぎの処理に困り果てた彼は彼女を連れて来ました。普通なら考えられない世界ですが、不幸な家庭に育った私は、どんな父親でも父親は必要だと偏った考えがあり、入籍は拒んだものの父親として彼が必要だと思い込み、その女に「お金目当てならあげるよ」と私の貯金通帳と印鑑を叩きつけました。その時の彼の情けない顔を今も思い出します。結局お金を払い事は解決。それから彼は私に対して変りつつありました。

私に浮気がばれるたびに宝石を一つ。そして、人を泣かせたお金で高級外車、毛皮、宝石、高級腕時計、家賃25万のマンション、でも、奇麗事ではないけど、私にはあまり必要なものではありませんでした。でも、バブルとともにそんな生活は長くは続きませんでした。いきなりお金を持っても維持することは出来ません。維持するための能力も知識もないからです。そして急降下していきました。競馬、競輪、あっという間に借金の山になった彼は、債務者が押し寄せる中、私たち親子を捨て名古屋まで逃げました。両親が名古屋にいたからです。私は父親探しに、何度も名古屋を尋ね両親にも尋ねましたが知らないの一点張り。でも、よく思っていなかった私に対する嘘だということを義御姉さんから聞き、本人に合わせてもらう約束をし、3ヶ月後に再開。また私の〝父親としての彼〟という依存が始まりました。

 名古屋で一般人としての彼はすっかり彼自身、自信をなくしているようでした。そんな頃から始まった長男への虐待。彼の暴力は日に日に増し、そして、パテシェとして仕事に依存し始めていた私は、それを容認するどころか躾だと賛同していました。母が私にそうだったように、多動気味の息子に対して日々暴力は重ねられ、いつしかアルコールに依存し始めた彼は、私や息子に絶えず暴力をふるい、性的な強要もされ、どんどん私は追いつめられていきました。仕事が無かったら生きた心地のしなかった毎日でした。そして完全に自信をなくした彼は、そんな私から仕事を奪い、そんな中、強要されたSEXにより妊娠をし、生まないといった私に彼は、「オレの子供じゃないんだろう」と半狂乱に陥りました。中絶をして、離婚という二文字を考え始めながらも、どんな父親でも必要と考えて耐えていた私に、息子が「このままじゃママ殺されちゃうよ、逃げよう」と… 間違っていたと息子に教えられました。そして離婚の準備に入ろうと思った矢先に、それを察した彼は私たちが寝ていた部屋に外からカギをつけ、自分のいない間は締めたままの状態が一週間ほど続き、借金をして部屋を借り、息子とそこへ逃げ込みました。酔っていない時に、かろうじて離婚に応じたものの嫌がらせは毎日のように続きました。私は高金利のところから借金をしたため昼夜働き、息子をほとんど放任していました。虐待の連鎖です。もっと他にも方法はあったかもしれないのに,お金を返さなきゃ、また逃げなきゃと…

私が家にいるのは眠っている時間を含めて6時間ほどしかありませんでした。
でも逃れなきゃ殺されてしまうと思えるような嫌がらせが毎日のように続きました。大家さんが心配のあまり警察を呼んだことも何度となくありました。夜の仕事へ出かける私を包丁を持って待ち伏し、何度か切りつけられそうにもなりました。私のあとをつけ、私の勤め先をつきとめ、店も何度かかわりました。灯油缶を玄関先に持ってきて、今からかぶって火をつけるぞと脅かされたり、とにかく何をされるかわからず、恐いのひとことでした。私の留守中に息子にも声をかけ、カギを開けない息子に激怒し、玄関のドアが壊れるほど蹴飛ばされ息子はただただ怖かったことでしょう。2年生でしたが、いまだに記憶がないほどです。そんな生活が3ヶ月ほど続き、彼にも女性が出来て、おさまりつつありました。やっと地獄から開放されと思っていました。

仕事に逃げていた私はかろうじてわれを保てていたのもつかの間の事でした。
友達が自分の彼氏とその友達を私に紹介するために、家に連れてきて、息子も含め5人で食事をしていました。御正月で大きな神社がそばにあったため帰りによってくれたそうです。そのとき連れて来たのが二人目の夫になった彼でした。正直、寂しいものの、男女交際そのものにうんざりしていた私。お友達でという話でした。お年玉をと、酔った彼がドア越しの笑い声を聞きつけ「てめえやっぱり男か、おぼえてろ!」と捨て台詞を吐くと一週間後に家裁から離婚無効の申し立てという内容のものが送られてきました。えっ?彼は家裁に、騙されて書いたが印鑑は押していないので無効だと言いがかりをつけ、申し立てたのです。それからまたそれを期に激しく私に付きまといました。私はそんな頃、福祉課に相談に行き、全てに詰まって身動きが取れなくなっていることを話すと、全面協力をしてくださいました。まず、高金利の借金を母子貸付金で埋めて半年凍らせて無理なく返していくことなど、事細かに対応してくださいました。そこの区は避難所がなく、何とかしてあげたいとの御言葉に泣き崩れたのを覚えています。

二人目の夫と交際を始めてまもなく、調停も続いていましたが、何とか話し合いでわかってもらおうと必死でした。調停員さんのその時の言葉です。「あのての人には小額でもいいから慰謝料という名目でお金を支払うと法的に拘束出来る」と… そんな頃からうつ病という病魔が私をおかしていきました。最初は眠れないことから始まり、たった4時間さえ眠れなくなってしまっていました。家裁の件も終息を迎え、ほっと一息ついた頃には夢遊病が始まり、過食が最初で最後は包丁を持って夜中に家の周りを歩き回る自分がいて、自分がそれを認識した瞬間、ギャーと悲鳴をあげたそうです。それを見ていた二人目の夫は私に神経科受診をさせ、多量の安定剤と抗うつ剤などにより、そのままわけがわからない生活が続き、当然のことながら仕事も休職せざるを得ない状況になってしまいました。その手続きは全て二番目の夫が動き、結局一年ずつの契約だったので、契約が切れて一時中断でした。

まだ病気でなかった頃よく彼には私には夢があると、息子とドイツに行って息子は語学とスポーツ、私はパテシェの修行をしに行くんだと…だから結婚する気はないと。家庭向きではないことも仕事が全てなことも私が自分で見つけた生きる道だとも… 今から思うと息子と二人でって、息子に対する放任の罪の意識もあったのかもしれません。

そんな弱りきっている私に彼の夢を押し付けた形となってしまいました。
家庭運がないというか、喧嘩の絶えなかった彼の両親。特に母親の傲慢さ。掃除・洗濯・家事全般がまったくダメなこと。外向きには派手で見栄を張ることに生き甲斐を持っているような母親に育てられた彼にとって、家族・家庭というものにポリシーと思えるぐらいの高い理想があり、私をその妻に当てはめる目論見は、私の意識のはっきりしない中でどんどん進んでいきました。この部屋にいると病気によくないからと、たまたま両親が住んでいるマンションの隣の一室が空き家になり、向こうの親子で相談し、私は良い悪いもないまま、気がつけば引越をして10Fの窓からボーっと外の景色を眺めているだけでした。彼も結婚は二度目で、一度目は母親によって壊されたそうです。世にいう自立していない人でした。結局は自分で判断できず、肝心なことは全て両親が握り、ギスギスしているぐらいケチケチしながら近所の人は資産を持っている方と評判になるぐらいの変な人たちでした。私は馴染もうと努力はしたものの、どちらかというと反対側にいる人に思えてなりませんでした。

 一人目の奥さんと離婚後、悪い女に引っ掛かったと言っていましたが、600万ほど尻拭いをしてもらった借金を親に返済していて、当時30さんをはるかに過ぎた大人が親に全てを管理されていました。そして私の夢は無視されたまま私は多量のこううつ剤と安定剤を飲みそこに私の意志はないまま長女を妊娠しました。避妊もせず私と結婚とか子供とかとにかくそういうことなど話し合える精神状態でなかった私は、まさしく策略に嵌められました。産みたくないし結婚も考えていないという私に、頼むから産んでくれの一点張り。夢は捨てられないし、確かに頼ったけど結婚は全然別と譲りませんでした。私は長男以外、子供産まないって、長男を産んだ時に固い決心がありました。そして彼は両親と相談、結婚してしまったら尻拭いをしたお金を返してもらえなくなると、もちろん反対。中絶のための費用を私の目の前に持ってきました。私はそのお金を彼に投げつけると、そのまま実家に帰り、父に相談すると、結婚はつり合いが取れないと反対。彼の両親は先代からの会社をつぶし、彼の父は昼間から御酒を飲んでいるような生活をしているためだとか。私の親としてどんなメンツがあるのか知りませんが、このできごとは自分が強い立場にあるし、場合によっては損害賠償をと言っていたくらいです。「何の挨拶もなく勝手に人の娘を自分の家に連れてって妊娠した挙句に中絶しなさいって?」父はうれしそうに見えました。傷ついている私など目に入っていないようにも見えました。そしてここで産めば良いじゃないか。と…

 やばいと思った彼は何度となく私の実家に足を運びました。父は結局結婚について反対といえなくなるくらいのしつこさした。父はだんだん現実的になり、私に「産んで仕事が出来るまでの生活費はどうするんだ?」と…結局彼の要求に負けたのと、彼が息子をてなづけ、息子に良いよって言わせるまでやさしい人を演じ、結局行き場をなくした私は名古屋へ戻る破目となり、結婚することになりました。うつ病だった私の大きな間違った判断でした。かかっていた医者は本人が望まない出産はうつ源になりうること、そして判断してはいけないことなど知ったことかのように「この薬は奇形の臨床例はないから大丈夫ですよ。でも治療、投薬は中断します」と… うつ病について何も知識のない私は抵抗することが出来ないまま、結婚をし、長女を出産。その瞬間から彼の息子に対する虐待が表面化していきました。まず病院で生まれたばかりの自分の妹を抱かせてあげようと息子に「ダッコしてみる?」と聞くと、とても嬉しそうに「ウン」。私が抱かせようとした時かれが「OO汚い手で触るな」と激怒しました。あまりの変貌に息子も私も唖然とするばかりでした。

 私は幼少期の半分を片親に育てられ、その片親さえ信じられぬまま大人になり、彼の家庭、両親が、世の中の家庭の基準でした。そう思い込んでいました。そして絶えず息子と自分の子供を差別し、薄汚い言葉で息子をののしる彼の行為は全て躾だと… 私はまたそれを容認してしまいました。彼は私に必要以上に依存し、私は授乳期を終えるとまた神経科通院。授乳が終わって薬を飲み始め、ボーッとしている私に、また避妊無しの性行為。次の生理がないまま次女を妊娠。抵抗する力さえないほど私は弱っていきました。結局三人目をまったく同じ状態で妊娠し、さすがに疲れ果てていた私はもう無理だと…経済的にも肉体的にも限界の状態でした。でも、「必ず俺も協力するから」と土下座をされ、結局病気だった私の間違った大きな判断をすることになりました。600万にもならない年収で、中古マンションのローンを親に払い、やっとの思いで節約して貯めた100万円を私に何の相談もなく、新車の契約をし、頭金に50万いると聞かされたのは契約してきた後でした。そしてマイホームが欲しいと物色を始め、彼の経済的わがままは尽きることがありませんでした。「家なんて無理だよ」といった私に、君も気分転換で少し働いたら?」穴の開いたパンツをはき、洋服だってもう何年も買っていなかった私。なのに、彼はスーツを着ての出社じゃないにもかかわらず出張でスーツがいると、カードで5万円のスーツを買ってきたと…八年の結婚生活の中で私に与えられたものは子供三人と過酷なまでの節約、そして壊れ始めた息子への虐待、離婚する直前に購入した小さな車一台、それだけでした。

 次男の授乳も終わり、また睡眠障害に悩み始め、通院を再開しようかと思っていたある日の事。テレビ番組で出産シーンが映っていてそれを見て私は「あなた、避妊手術するって約束どうなった?それにこんな状態でまたもし妊娠したらどうするの?」と聞くと「そのうち行くよ。でも、もし妊娠したら絶対中絶はさせないよ」と笑いながら言いました。凍りつく瞬間でした。

 そして決定的な瞬間を迎えることになりました。御正月に彼のお姉さん家族が里帰りをしに来た時の事。相変わらず長男にののしる彼を見てお姉さんが「どうしてOO君にあんな言い方するの?かわいそうじゃない」。彼の躾は虐待だったと、思い知らされる瞬間でした。私の彼に対する憎しみを意識し始めた瞬間でもありました。離れていく気持ちをなんとか繋ぎ止めようと彼はあせり、あせればあせるほど私の気持ちは離れていきました。

 一番下の私にとっては次男を産むことがきまった時、向こうの母親に経済的理由で反対されました。そして言われた一言が「男は無責任だから黙っておろしてくればよかったのに」と…私の様子がおかしくなり始め、口論になった時に彼は言ってはいけないひとことを私にぶつけました。「そんなに産みたくなかったんならおふくろの言うように黙っておろしてくればよかっただろう」と…そして私は十二指腸潰瘍で入院。もうそんな頃はすっかり別れを意識し始めていました。そんな私を察したのか、彼はギャンブルへと依存先をかえ、みるみるうちに借金の山となり、私の精神状態も極限を迎えていました。

離婚を前提とした別居がきまり、彼は子供達を武器にしたものの、あまりの過酷さに根を上げ、育てていけるかどうかと悩み苦しむ私に、「子供はやっぱり母親が育てた方が良い」という言葉でした。悩んでいた私は息子に一言言われました、「ママ、ママが見放したらあいつらオレと同じ目にあうよ。いいの?」と…周りの協力を求め,何とかなるで始めました。

新生活が始まりまもなく、長男は耳鳴りと極度のめまいで緊急入院。ホッとして神経症を発病しました。そんな頃から私は虐待・虐待と神経症の関連の本を読みあさり,虐待の連鎖についての事実を知りました。病院から帰ってきた息子はラグビーで全国大会へ出場した敬意がありながら、通っていた高校をやめ、何もかもを放棄して3ヶ月ほど引きこもりました。私はまず息子に向かって虐待をしてきた事実を全て認め、ゴメンネと謝罪し、

「ママが憎いと思ったら殺されても仕方がないぐらい辛い思いをあなたにさせてきた」と…「ママはお前を産んだ時お前が死んだら私も生きていないという決意のもとに生んだのに、その大切なあなたをこんなに苦しめてごめんなさい」「もしあなたが今私を殺すとしたら、殺すぐらい憎んだら、あなたは楽になれる」と…彼を苦しみから解放すべく私自身も含め命がけで向き合いました。そして中学時代の彼の友達たちに支えてくれたことと、私が彼を受け入れることによって少しずつ前に向かって歩いてくれるようになりました。

今私には4人の子供がいてそのうち三人は私の中のどこかで受け入れていないという感情からうつ病と向き合おうと決意し、もう縁を切ると言われてから二十年近く会っていない母に会いに行きました。私がこれから子供たちに何のためらいもなく愛情を注いでいけるかがここから始まるような気がしたのです。そして二十年ぶりに逢った母は仕事も生活も趣味も生き生きしているものの再婚した相手には悩まされ、妻としては決して幸せではありませんでした。まずは私の幼少期の事から話は刻々と進んでいきました。母も強がったものの心療内科にかかり自分の状況を知りなおかつ私のように無理してでも子供たちを私の父から奪えばよかったと…人生で一番悔しかったことだと…そして私たちが慰謝料を払わないための道具として使われたことなど… あまりの違った現実にしばらく私は受け入れることが出来ませんでした。でもそのとき私が諦めてしまったしまった子育てを、必ずやり遂げてと言われ、私たちの事については謝罪してくれました。そこから一週間ほど深い闇に落ちましたが、私には僅かながらに光が見えてきました。連鎖を食い止めようという強い決心にかわりつつある、今日この頃です。